【ネット時評 : 増田幸弘(編集者)】
東欧革命から20年――ベルリン、四半世紀ぶりの再訪

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 「ベルリンの壁」を一目見ようと、ドイツのベルリンを訪ねたのは1985年のことだった。戦争が終わって生まれ、冷戦の時代、「平和」と「民主主義」の国ニッポンで生まれ育ったぼくにとって、ベルリンは東西対立の象徴であり、一度は行くべき「聖地」のように感じていた。そう考えるのはぼくばかりではないようで、そのころ多くの“西側”の若者がベルリン詣でをしていた。
 

壁の向こうにあったベルリン

 ぼくはまだ大学生で、アルバイトをしてためたいくばくかのお金でウィーンからミュンヘンを経て、ベルリンを旅して回った。それぞれ1週間ずつ、旅行にしては長めの滞在だった。ミュンヘンを出発した電車は、東ドイツ国内を、途中、ほぼ停まらずに、ベルリンへと一気に向かった。車窓からはときどき煙を噴き上げる古びた工場が見えたが、ほとんどは森のなかをひたすら突き進んだ。車窓から東ドイツの暮らしぶりが見えるかもしれないとの思いは期待はずれに終わった。

 食堂車で年輩のドイツ人と相席になった。日本酒を飲んだことがある、と彼女は切り出した。
「ベルリンははじめて? いいことがあるといいわね」
なにか含みがあるようで、それでいて素っ気ない言い草だった。電車がツォー(動物園)駅に到着する間際、彼女は「ようこそベルリンへ」と声をかけてきた。当時、このツォー駅が西ベルリンの表玄関だった。駅を降りると、さっそく薬の売人が寄ってきた。クーダム(クルフュルステンダム通り)を歩いていると、雨が降っているわけでもないのに売春婦が傘を差し掛け、言い寄ってきた。街全体になんとも危うい雰囲気が漂い、退廃的な印象があった。

 東ベルリンにも出かけた。“壁”の向こう側を垣間見る一日旅行はベルリン詣でのハイライトだった。東から西に行くのは命がけだったが、西から東に行くことはできたのである。人気の少ないウンター・デン・リンデンをぶらついたり、路地をあてもなくさまよったりした。古びた建物には戦争のときの銃弾のあとが目についた。

 路上で出くわしたひとりの男が声をかけてきた。西側のタバコを交換してくれという。ぼくはフランスのジタンというタバコをそのころ吸っていた。一本を渡すと、男は東ドイツのタバコを差し出した。吸ってみると、ずいぶんきつい味だった。


激変した街を歩く

 そのベルリンを再訪した。およそ25年ぶりのことになる。現在ぼくはチェコのプラハに住んでおり、やはり
プラハに暮らしているベルリンっ子の友だちマルティンに誘われ、二人で出かけたのだった。旧東ベルリン側にある彼の友人エルンストのフラットに転がり込むと、二人の小さな子どもがはじめて家に訪問する日本人を興味深げに眺めて興奮していた。

 着いたのは夜だった。さっそく飲みに行こうと、地下鉄U2線の最終駅であるパンコウ界隈にある店に連れていかれた。かつては東ベルリンだったエリアである。クルマを停めようにも、駐車できるスペースがなかなか見つからない。かつてたくさん走っていた東ドイツ製の自動車「トラバント」は一台も見かけなかった。プラハの街ではトラバントが現役で走っているのとは大きなちがいだ。

 小さなレストランでおいしい魚料理を食べたあと、パブに行った。いかつい男がカウンター越しに目を光らせていた。25年前に感じた、どことなく危うい、ざわついた匂いがした。
「壁が崩壊して、1992年か93年ごろがいちばんおもしろかったかなあ。むかしは店も全然なくってね。その代わり、普通の部屋で勝手に店をはじめたりしていた。そこで明け方まで飲み明かしたもんだよ。みんなこうして貯めたお金を元手に、店をはじめたんだ」、とマルティンは振り返る。

ブランデンブルク門で観光客に“ビザ”発行
 翌朝、一人で25年前の記憶を探すことにした。ウンター・デン・リンデンでクルマからおろしてもらい、ブランデンブルク門にいってみた。門の向こう側にはかつてすぐに壁があったが、いまは映画『ベルリン・天使の詩』(ヴィム・ヴェンダース監督、1987年)で印象深く描写されていたジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)がまっすぐつづく道の向こうに見通せる。門のところでは旧東ドイツの軍服を着た男が、観光客相手に昔風のビザのスタンプを紙切れに押すことを商売にしていた。もちろんなんの意味もないビザである。

 アレクサンダー広場やテレビ塔の界隈を散策したあと、地下鉄に乗り、かつてのツォー駅に向かった。戦争で破壊されたまま保存されているカイザー・ヴィルヘルム記念教会と、ベンツのマークがくるくる回る建物はすぐに記憶と一致したが、あとはなにもかもがすっかり変わってしまったような気がした。随一の繁華街だったクーダムはどことなく淫靡な影のある、暗い道だったが、いまは明るい、ファッショナブルな通りになっていた。

保存された壁は今も重い雰囲気
 壁がなくなったせいか、街がどうなっているのか、さっぱり要領を得ない。少しは知っている街のはずだったが、距離感も方向感覚もなにもなかった。そこで生まれてはじめて、街をぐるりと回る観光バスに乗ってみた。季節はずれということもあり、料金は半額で、お客は数組しかいなかった。車窓からは、かつて訪れた場所がいくつも見えた。なんにもないところにぽつんとあった美術館「バウハウス・アーカイブ」は周囲を建物に囲まれていた。ぼろぼろの国旗をはためかせながらも“大日本帝国”の幻影を感じさせた日本大使館の廃墟は、見ちがえるほど立派な建物になっていた。

検問所跡。いまは無人だ
 壁もそのごく一部が保存され、西と東を隔てる検問所「チェックポイント・チャーリー」もあった。壁で分断されていたポツダム広場にはソニーセンターをはじめとするビル群が建ち並ぶエリアで、ベルリンの新しい顔になっていた。壁という過去のすべてが遠い歴史の一コマに仕舞い込まれていると感じた。わずか20年しか経っていないにもかかわらず、である。


ベルリンっ子たちの20年

パブで飲むマルティン(右)と友だち
 夜はマルティンたちと待ち合わせ、旧東ベルリンの象徴だったテレビ塔の近くにあるパブに繰り出した。ぼくが経験した今日一日の“冒険談”を話すと、みんな頷くように聞いたり、「“西側”の奴はみんなクーダムなんかに行きたくなるみたいなんだよな。もともとベルリンの中心だったのは“東ベルリン”のほうなんだぜ」と笑ったりしていた。そして、一人ひとりが歩んだ20年をかみしめているようだった。

 マルティンは城などの修復をする腕のいい職人で、世界中を駆け回っている。軍人だったムーラの腕にはトラバントのマーク「S」がある。退屈な軍の生活のさなかに彫ったというタトゥーだ。いまは海辺で鳥を監視する仕事をしている。二人の子どもの父親エルンストは長らく失業中で、ミューラーは歯医者を二軒経営している。ぼくとあまり世代の変わらない、東ドイツで生まれ育った人たちのそれぞれの20年だ。


グローバル化とネットで世界はどう変わった

 壁で閉ざされたベルリンしか知らなかったぼくにとって、新しいベルリンは新鮮な驚きをもたらした。その驚きは、しかし、とても肯定的なものだった。現在住んでいるチェコのプラハを13年ぶりに再訪したときは、その変化に腰を抜かすほど驚き、愕然としたのとは対象的である。

 1989年にドイツでベルリンの壁が崩壊し、そしてチェコスロヴァキア(当時)が民主化してから今年でちょうど20年になる。その間、世界はほんとうに大きく変わった。グローバリゼーションとインターネットがその推進力だった。壁を築いてまで守ろうとした国境の管理は、シェンゲン協定によってヨーロッパの多くの国でなくなり、検問所もなくなった。

 それは移動の自由がきびしく制限されていた旧東欧諸国も変わらない。しかし、旧東欧諸国では共産体制の時代という「過去」が、いまも影としてつきまとっているのも確かだ。マルティンのように旧東ドイツの人が共産主義の時代のことを割合なんでも平気で話してくれる一方、チェコの人たちはいやがる人が多い。共産時代のことを尋ねると、怒りはじめる人もいる。

 チェコでは当時の記憶が未だ多くの人びとの心にトラウマとして残り、タブー視する人も少なくはないのである。この差はいったいなんなのだろう。かつて冷戦の時代、東欧諸国を支配していた共産体制とはいったいなんだったのだろう。近ごろでは「共産主義」や「社会主義」とはいわずに、「全体主義」という言葉で当時を括ることが一般的になってきている。そのことがすべてを物語っているのかもしれない。


<筆者紹介>増田 幸弘(ますだ ゆきひろ)
編集者
1963年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒。編集者(やや文筆業)。チェコ共和国プラハ在住。チェコを拠点にヨーロッパ各地を取材。新聞・雑誌に特集記事や連載記事を執筆。著作に「プラハ カフカの生きた街」(パルコ出版、編著)、「ルポルタージュ よい野菜 全国91産地を歩く」(日本経済新聞社、共著)、「日本地理おもしろ雑学」(日東書院、著書)などがある。

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