【ネット時評 : 神成 淳司(慶應義塾大学)】
2010年代は農のIT活用に期待――アグリ・インフォマティクスの可能性

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 あまり知られていないことだが、日本国内の農業生産性は非常に高く、単位面積あたりのカロリー量で比較すると米国の9倍程度と世界でも最高水準に位置している。高齢化や狭量な農地等の影響もあり、日本の食糧自給率は低水準を推移しているが、この高い生産性を生かす事は、農業分野のみならず、日本の国家戦略として非常に重要である。
 

■匠の技を継承する日本農業

 そもそも、米国と日本とで、なぜこれほど生産性が違うのだろうか。その答えは、作物の生育方法にある。作物の生育は、自然環境の影響を受ける。作物の生育状態と自然環境の状態に応じて、農家が農作業を実施する。その際に、適切な農作業を適切なタイミングで実施しなければいけない。農作業の内容やタイミングを誤れば、作物の生育に悪影響を与えてしまう。逆に、最も適切な農作業を適切なタイミングで実施すれば、多量の作物を生産できるのである。

 ただ、一口に「適切な」といっても、その実行は非常に難しい。同じ地域であっても、自然環境は毎年異なる。その変化を予測することも難しい。影響を受ける作物自身の状態は、毎年どころか日々異なっている。それゆえ、熟練した農家であっても、過去の成功体験をそのまま適用出来るわけではない。

 その時点において最も適切な農作業を実施しても、その後の自然環境の変化に応じて、更に異なる農作業が必要とされる事も多い。ビニールハウスなどの呼称で一般的によく知られている栽培施設を利用した作物栽培においても、外気の影響を完全に遮断できるわけではなく、日照不足を補えるわけでもない。あくまで、出来る範囲での農作業を通じ、自然環境からの影響を最大限に活用し、日々努力を重ねる事が求められていく。それゆえ、ただやみくもに経験を積み重ねても高い収穫量が得られるわけではない。名人あるいは匠とも呼ばれる、「適切な」農作業を実施できるいわゆる「篤農家」は、ほんの一部である。それはどこの国でも変わらないわけであるが、日本は、匠の技を尊び経験を積み重ねる文化の影響からか、篤農家を含めた農家全体の技術水準が諸外国と比較して優れているのである。

 しかし、その優れた技術水準は、崩壊の一歩手前という状況まで来ている。農業分野の高齢化傾向が著しい事は多くの方がご存じだろう。就農人口数を年代別に比較すると、75歳以上が最も多数を占める右肩上がりのグラフとなる。今後数年以内には、これら「匠の技」は失われ、日本の優れた農業技術は消えてしまう危険性がある。そうなれば、日本の食糧自給率向上が見込めないばかりか、将来的には食糧不足も懸念される事態となる。


■従来型の取り組み

 では、この事態を回避するためにどのような方策があるのか。以前から進められてきたのは大きく分けて二つの取り組みだ。まず一つは、新規就農者の増加である。それも、可能であれば、優れた知見を持つ篤農家へ弟子入りさせようというものだ。農林水産省や関連団体は様々な手法や機会を通じて、若年層はもとより定年退職者に至るまで様々な世代の方々に就農機会を提供している。私が所属する慶應義塾大学には、これらの機会を活用し、出身地域の農業団体で活躍する学生もいる。ただ残念なことに、まだ絶対数としては限られており、今後引退が見込まれる70代、80代の農家数と比較すればごくわずかに過ぎない。また現実には、自分の子供に後を継がせようとする農家が少ないことからも推察されるように、新規就農者の経営状況は非常に厳しい。多くの場合60代で退職することになるサラリーマンと比較し、熟練した農家は、ある程度の規模の農場を経営すれば70歳を超えても安定的に収入が得られる点が魅力であるものの、そこに至るまでの道筋は非常に険しい。初期の設備投資も必要であるし、新規就農から10年程度は、農業収入だけでは生活できないことも珍しくない。熟練した農家へ弟子入りし、長年の経験を経て農業生産技術を獲得するというのでは、これから生活を営もうとする若年層、退職後の安定的な生活を夢見る退職者層には、まだそれほど魅力的なものではないと考えられる。

 このため、ここ数年注目されてきたのは、もう一つの取り組みである植物工場である。すなわち、予測できない自然環境に頼らず、個々の作物に適した環境を人工的に構築し、安定的な作物栽培を実現しようという取り組みである。この取り組みの素晴らしい点は、篤農家に頼ることなく安定的な作物栽培の実現が可能である点と、早期に多数の地域へ展開できる点である。例えば、苗床での栽培から培地への定植、その後の栽培から収穫に至るまで、作物の個々の生育段階において、温湿度、あるいは日照量などが、どの値であればよいかのノウハウさえ把握しマニュアル化できれば、農家はそれに従って作業をすればよい。自動車や家電の製造ラインと同様に、マニュアルに基づいて作業をすれば、一定品質の製品(作物)が出来上がってくるのである。マニュアル化することで、日本企業の自動車や家電の製造工場が海外に拠点を設けるのと同じく、植物工場も様々な地域へ容易に展開できる。その土地本来の自然環境が気になるのであれば、土壌も水も運んでくればいい。そうすれば、場所性からも解放される。出来上がった作物の輸送手段を確保できれば農地の場所はどこでもいいことになるからだ。また作物の収穫時期も変更できるので、市場でその作物が不足する時期に収穫時期をずらす事で値崩れも防げる。まさに良いこと尽くしのように見えるが、設備費用が莫大な額に上るという欠点を持つ。太陽を含めた自然環境に頼らず、作物に適した環境を構築しなければならないということは、人間であれば冬場は厚着をして寒さに耐えるところを、厚着をしなくても耐えられる環境を用意するようなものだ。設備投資額は、おおよそ同じ敷地面積の一戸建ての建築費用の数倍程度、と非常に高額となる。生産規模が拡大すればコスト低減化も見込めるが、厳しい経済状況の影響もあり、着工数もごく限られている。横展開も含めた可能性としては非常に有望だが、現状ははかばかしいものではない。


■アグリ・インフォマティクスの登場

 そこで、この状況を打破しようと数年前から新たに試みられるようになったのが、IT、それも情報科学分野の研究を活用した取り組みである。私自身は、この取り組みを、前提となる知見の名前を用いて、農業情報科学(Agri-Informatics、アグリ・インフォマティクス 以下AI)と呼んでいる。

 前述のように、熟練した農家は作物の状態を見て、自然環境を肌で感じ、あるいはその他の様々な要素の影響を踏まえ、総合的に、「適切な」農作業を判断している。従来は、その農家自身に弟子入りして長年の経験を経て培う必要があったこの「判断」を、情報科学の研究成果を用いて解明し、多くの人が活用出来る状況にする事がAIの狙いである。すなわち、どのような自然環境の中で、どのように作物が育成され、その過程でどのような農作業がなされたのかといった情報を精緻(せいち)に把握し、相関関係を解明すると共に、その成果がより多くの農家の作業に役立てられていくようにするのである。従来は困難だったこの類の取り組みも、先端のITインフラと情報科学の手法を用いる事で、AIとして実現できるようになってきた。

 残念な事に、たとえ先端の研究成果であっても、AIを用いるだけで即座に熟練した農家と同じレベルになれるというものではない。熟練した農家の判断はそれほど難解なもので、コンピューターが今後さらに進歩したとしても、全ては解明できないだろう。ただ、そうした判断のごく一部だけでも利用する事が出来れば、誤った判断をする機会は大幅に低減させられる。また、自然環境に対応する術を身につける事で、自然からの影響をなるべく無視するというのではなく、自然からの影響を最大限受け入れつつ、悪影響となりそうな部分だけ排除するといった方向へとシフトできる。これは、自然からの影響を排除することに多大なコストや労力を費してきた植物工場の場合、施設全体としてのコスト低減効果は非常に大きなものとなる。

 AIの成果は、熟練した農家を不要にするというものではない。従来は10年、20年の経験が必要とされた、熟練した農家になるための最初の過程を、短縮しようというのだ。このことで、新規就農者は早期に安定的な収入を得ることが可能となる。多くの農家が抱える後継者問題への有効な解決策ともなろう。また、熟練した農家自身にとっても、自分たちの判断の基準を客観的にとらえるきっかけとなる。熟練した農家の判断を広く流通させることで、農業分野全体の活性化を促すことが期待できるのである。


■実験を終え、次の段階へ

 既にAIの取り組みは、実験的な段階を脱している。国内ではいくつかの大手企業が手がけており、慶應義塾大学としても、いくつかの大学と協力し、全国各地と連携して幅広い地域への展開を進めている。連携先には、既存の農業法人に加え、流通卸や小売業も含まれている。生産現場のみならず、食品流通全体と連携する事で、単なる生産性向上にとどまらない、サプライチェーン全体へと取り組みの輪が広がりつつある。その中で、消費者の「安全安心な生産物」といったニーズに応える新たなソリューションの創出も模索している。また、これらの連携を支える情報インフラとして、2009年後半以降、WiMAXやMobile端末の普及が急速に進んでおり、効果が期待できる。
 
 日本の人口が急激に減少していく一方で、世界人口は増え続け、2050年には85億人を超えるという予測もある。世界の農地面積増大は容易ではない事からも、近い将来、世界の多くの人々が飢えの危機に直面する確率が高まっている。限られた農地面積で最大限の収穫量を実現する日本の篤農家の知見は、この危機を回避する鍵であると共に、今後の日本の経済成長を促す重要な要素となり得る。篤農家の高齢化状況を踏まえると、残された時間は非常に限られている。私たち、そしてその次の世代の人々のためにも、2010年はAI分野のさらなる進展を期待したい。

<筆者紹介>神成 淳司(しんじょう あつし)
慶應義塾大学環境情報学部 専任講師
1996年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2003年岐阜大学工学研究科博士課程修了。博士(工学)。96年よりIAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)助手。同校講師を経て、2007年より慶應義塾大学環境情報学部専任講師。現在に至る。 この間、岐阜県情報技術顧問(2000年 -2006年)他を兼務。地方行政のIT化に携わると共に、現在に至るまで、第一次産業、第二次産業を中心に、様々な産業のITによる活性化に取り組んでいる。専門はコンピュータサイエンス(産業応用)。主な共著書に、「計算不可能性を設計する(ウェイツ刊)」など。

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