【地域情報化の現場から】
第36回「被災地でライフラインとしての情報をつなぐ ~新潟県柏崎市の「FMピッカラ」が中越沖地震で果たした役割~」

東本町にあるFMピッカラの局舎

 2007年7月16日午前10時13分、新潟県上中越沖を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生した。日本海に面した人口9万人の柏崎市は、震度6強の激しい地震に襲われた。新潟県中越沖地震だった。被害は市内だけでも死者14人、重軽傷者1664人、全壊1114棟(※新潟県災害対策本部、2008年5月2日発表)。被災地の中心部に位置するコミュニティFM放送局「FMピッカラ」(株式会社柏崎コミュニティ放送)は、自らも被災しながら24時間体制の災害放送を行った。地震発生直後から41日間にわたる災害放送は人々の命を守り、避難生活を支え、勇気付けた。地域に密着したメディアだからこそできたこと、震災によって見えてきたものは何か。

1分45秒‐被災地の中心からの第一声

 流れていた音楽が、ざわついた様子のスタジオに切り替わる。「少し話して」という女性の声が小さく入り、続いて男性が一言ずつ、ゆったりとしたペースで話しはじめる。

 「お聞きの放送は、76.3Mhz、FMピッカラです。ただ今、柏崎市で、大きな揺れがありました。皆さん、落ち着いて、行動してください。皆さん、落ち着いて、行動してください…」

 ほどなくしてサイレンの音とともに防災行政無線が割り込んでくる。
 中越沖地震発生から第一声まで1分45秒。41日間続くFMピッカラの災害放送のはじまりだった。

放送部長兼パーソナリティの船崎幸子さん

 地震発生時、放送部長の船崎幸子さんは局舎の事務所にいた。事務所の書棚は全て倒れ、パソコンやCD、MDなどが足の踏み場もないほど散乱した。上から落ちてきた物の下敷きになった船崎さんは自力で抜け出し、周りにいた局員の無事を確認すると、緊急放送の指示を出した。

 冒頭の女性の声はパーソナリティーの高橋裕美さん、男性は同じく阿部洋一さんだ。スタジオで打ち合わせをしている最中だった阿部さんは、自分の家族の安否も確認できないままマイクに向かうことになった。

地震直後の柏崎市の中心商店街・東本町(柏崎市撮影)

 外に出た船崎さんは倒壊した建物や止まった信号などを目視し、スタジオに伝えた。FMピッカラの局舎自体も土台が見えるほど浮き上がり、周囲の路面には亀裂が走っていた。事務所に戻るとパソコンとテレビを立ち上げ、テレビに映し出されるテロップやインターネットで収集した情報を放送に差し入れていった。

 朝の生放送を終えてサブスタジオで編集作業をしていた野村介石さんは自転車で市役所に駆けつけ、10時30分には市役所4階に設置されたばかりの災害対策本部に張り付いた。スタッフの大橋久美さんも、市役所3階の緊急割り込み装置室に向かった。10時35分には統括部長の前田弘実さんが事務所に到着。災害放送の体制が整った。その間もスタジオからは「あなたは大丈夫ですか、皆さんも周りの情報を寄せてください」と呼びかけ続けた。

 「スタジオにある時計は10時13分15秒で止まっています。放送開始まで1分45秒といいますが、厳密にはもっと短い。大きな揺れが1分近く続くなか、揺れが収まってから行動を起こしたのですから、ものすごいスピードだと思います」と船崎さんは言う。

 迅速な対応ができた背景には、不幸中の幸いが重なっていた。

災害放送の申し子FMピッカラ

 なぜ、これほどまでに迅速な対応ができたのか。

 まずは時間帯だ。普段のFMピッカラは、朝昼晩それぞれ3時間ずつの生放送をしている。それ以外の時間は短い編集番組を流すか、東京の衛星放送を再送信している。地震が起きたのは、ちょうど朝の生放送を10時に終え、衛星放送の音楽番組を流している時だった。出社後、取材などに出かける前の時間帯で、局員の多くが局舎の中や近くにいた。

 局員が社員だったことにも助けられた。FMピッカラの局員は社長と事務担当者を入れて9人。パーソナリティー4人を含め、現場で放送に携わる7人は即座に定められた緊急配置につき、24時間体制の放送に入った。「番組を掛け持ちしているタレントではこうはいかなかった」と船崎さんは言う。

 局舎は倒壊を免れ、機材も無事だった。パーソナリティー自身が操作できるように、機材が簡便に作られていたことも立ち上げの早さにつながった。

 市内の多くの地域が停電したにも関わらず、何とか局舎の電気は通じていた。緊急時の自家発電装置を起動することなく、すぐにテレビやインターネットで情報収集をすることができた。

 何より、災害放送の経験が豊富だった。振り返ってみれば、FMピッカラは災害放送の申し子のようなものだった。
FMピッカラは、1995年6月20日、全国18番目のコミュニティFM放送局として産声を上げた。「情報で地域を活性化する」という使命のもと、地元の青年団体が1990年から議論を重ねた末の開局だった。ミニコミ誌やCATVという案もあったが、資金面で断念。1992年のコミュニティFM放送局認可に伴って、小さなラジオ局を作るという案に行き着いたのだった。開局当初は月額10万円の借家で、送信アンテナなど放送設備全てを5年のリースで対応した。雷の光と音を表す愛称「ピッカラ」は、柏崎で親しまれている民謡「三階節」の一節からとった。手探り、手作りの開局だった。

 開局してわずか3週間目の1995年7月に、「7.11水害」が起きた。8月下旬まで新潟県一帯を襲ったこの水害で、FMピッカラは初めての災害放送を行うことになった。当時は正社員1名。できることは限られていた。スタジオを飛び出し、携帯電話に放送をつなぎ、市内各地の危険箇所を車で巡回し、現場の状況を伝えた。これが功を奏した。柏崎市が防災行政無線で指示した避難場所の一つは、水害の影響で渡れなくなった橋の先にあった。FMピッカラは防災行政無線の間違いを指摘し、放送を通じて安全なルートを示すことができた。この災害放送で、FMピッカラは行政からも地域住民からも認知されることになった。

 以来、FMピッカラは年に1度か2度は何かしらの災害放送を行ってきた。だからこそ、7人の局員は非常事態の渦中でも放送開始に向けて自然と体が動いたのだった。

ラジオと携帯電話と水-48時間の命を守るもの(災害放送初期)

市立柏小に避難した住民たち(柏崎市撮影)

 中越沖地震直後、ラジオを通した「情報を寄せてください」という呼びかけに対し、10時台後半からリスナーからの情報が次々と入りはじめた。メール、特に携帯電話のメールが一番多く、次いでFAX、電話の順だったという。

 「今回の地震では、特にインターネットが生きたと思います。インターネットでもうちの放送が流れ、メールで情報が寄せられました。3年前の中越地震の時は、携帯メールでのコミュニケーションはまれでした。誰の手も差し伸べられないところにいたとき、救援が来るまでの48時間を生き延びるために最低限必要なのは、今はラジオと携帯電話と水だと思います。自分の安否を知らせるための携帯電話、情報を得るためのアナログ式のラジオ。アナログとデジタルの融合は確実に進んでいるという実感があります」と船崎さんは語る。

 元々は広域エリアの難聴地域に番組を届けるために始めたインターネット放送だが、震災を機に地元を離れた人など全国から、遠くは海外からもアクセスがあった。地震の前は月100件ほどだったアクセス数は、地震後には1時間に1000件を越えた。多いときには1日100通以上のメールが寄せられた。

 リスナーから寄せられたメールの数々で、被害の状況が詳らかになっていった。まるで特派員のように、町名とともに状況が報告された。局舎の周囲では寺社や商店街などあちこちで建物が倒壊し、水道も止まっていた。局員自身も手分けをして飲み水を確保し、放送の合間に携帯メールで家族と連絡をとろうとした。

 統括部長の前田さんは言う。「災害現場の真ん中にあったからこそ、県域以上のマスコミのようにセンセーショナルな報道をする必要はありませんでした。地域の人に伝えなければならなかったのは、どこに避難所があって何人いる、そういった情報だったのです」

事務所内で指示を出す前田弘実統括部長(手前)

 震災当日にリスナーから寄せられた情報は、安否確認や避難時の交通情報など命に関わるものばかりだった。全ての情報源の裏づけをとっている余裕はなかった。前田さんの決断は、リスナーからの情報だということを断った上で、電波に乗せるということだった。顔や名前は知らなくとも、地震前から投稿歴のあるリスナーからの情報であれば積極的に採用していった。「この判断はメディアとして正しかったのか、情報に信憑性はあるのか、という意見もあるでしょう。しかし、過去に連絡をくれたリスナーが、生きるか死ぬかの中、携帯電話から送ってくれている情報です。疑う余地はなかった。信じるしかなかった」と船崎さん。

 船崎さんは続ける。「でも、あるときから人の心に変化があったのです」

心と体をケアする情報(災害放送中盤)

 「きっかけは電気の復旧でした。テレビでは自分たちのまちの状況が報道されている。今までは見えていなかったものが見えてくる。すると、様々な不平不満が出てくるようになりました」と船崎さんは言う。7月19日には市内のほぼ全域で電気が復旧した。時を同じくして、「市役所の対応が悪い」「どうしてあそこにばかり物資がくるのか」といった不満の声が増えていった。

 一方で、リスナーから「ありがとう」という言葉も届きはじめた。局員を労う言葉、ボランティアや自衛隊に対する感謝の言葉が寄せられるようになった。船崎さんは「電気が心にも明かりを灯した」と感じたという。

 日を追うごとにやりとりされる情報は多様になった。リスナーが求めるものは緊急の災害情報から細かな生活情報へと変わっていった。仮設トイレの場所、物資の配給場所、炊き出しの時間、コインランドリー、すいている入浴施設、ごみの出し方、バスの運行状況などの問い合わせが増え、「迷いペットを見つけたので飼い主を探してほしい」という依頼や「眠れない」という相談まであった。

 FMピッカラは市役所などに確認をとって各種の問い合わせに答えると同時に、被災者の心と体をケアするための情報を積極的に流しはじめた。「暑さを乗り切るには塩分と水分を取れるキュウリの漬物がおすすめ」といった知恵や、リスナー同士が励まし合うメッセージなどが次々と電波に乗った。深夜の時間帯にはリクエストを受けて人々を元気付けるような音楽をかけた。

KOKIAを迎えての「復興コンサート(8月6日、市民プラザ前広場にて=柏崎市撮影) 」

 リスナーとのコミュニケーションは思わぬ波及効果も生んだ。リスナーの一人が東京在住の女性シンガー・ソングライター、KOKIAさんに送ったメールから、柏崎の応援ソングが生まれたのだ。FMピッカラではその歌をテーマソングのように何度も流した。8月6日にはKOKIAさんを柏崎に招いた復興支援コンサートが実現。FMラジオのみの告知にも関わらず3000人を超える人が集まった。

 しかし、復興支援コンサートと同じ頃、FMピッカラのウェブサイトの掲示板は閉鎖を余儀なくされていた。要人の被災地訪問をきっかけにその是非を問う議論が巻き起こり、全国から書き込みが殺到し、収拾がつかなくなったのだ。「あくまで手作りのウェブサイトで、掲示板も無料のものを使っていました。掲示板に広告が入ることへの批判、荒らされるのは管理が悪いからだという非難も受けました」と、インターネット担当スタッフの種岡花枝さんは言う。ラジオならば、集まってくる情報をパーソナリティーが取捨選択して流すことができる。掲示板閉鎖以降も、ラジオを通じたリスナーの交流は続いた。

 1ヶ月以上続く災害放送の中で、FMピッカラは人々を元気づけ、時には不安や苛立ちを感じる人々の感情の受け皿にもなったのだった。

終わっても続く経営の危機(災害放送終了)

 8月25日午後6時をもって、41日間にわたる24時間体制の災害放送は終了した。「これからもFMピッカラは様々な情報提供の中で、災害関連情報を市と連携して届けていきます」という船崎さんの言葉で締めくくられた。

 連日の残業と4日に1度の泊まり込み勤務で、局員の疲労は限界に達していた。災害放送後半は深夜の時間帯を音楽のみにしたが、スタジオで仮眠をとりながら余震のたびにマイクに向かった。局員の多くが市内に住み、自身も被災していた。市外から通う船崎さんも、保育園に通う子どもたちの寝顔しか見られない日々が続いた。それでも「いつもの声で伝えることがリスナーの安心につながるから」と4人のパーソナリティーが交代で喋り続けた。オーバータイムの手当てなどない、全くのボランティアだった。

 災害放送によって、経営面でもFMピッカラの存続が危うくなった。災害放送時はCMをカット。通常放送に戻した後に倍のCMを入れるという取り決めになっていたものの、地震の影響によるスポンサー離れも危惧された。

 大きな痛手を受けながらもFMピッカラが8月後半まで災害放送をやめられなかったのには理由がある。市町村合併のために防災行政無線が整備されていない地域のために柏崎市が開設した臨時災害放送局で、FMピッカラの放送を流していたからだ。臨時災害放送局の開設は阪神淡路大震災以来全国で5番目だが、既存のコミュニティFM局の放送をそのまま流すのはFMピッカラが初めてだった。

 「本来、市がやるべき仕事を私たちが相当、担いました。あまりにも行政の情報を流しているので、FMピッカラのことを第三セクターだと思っている市民の人たちもいました。私たちは広告費で成り立っている、純然たる民間企業だということを、皆さんにもわかってほしかった」と船崎さんは訴える。

 FMピッカラは「サポート倶楽部」という約80社、計100口程度のスポンサーに支えられて成り立っている。東京電力などの例外を除き、そのほとんどが地元の柏崎市内にある企業や商店だ。広告収入を中心に、CD売り上げやイベント司会等の収入を合わせた総売り上げは約4,200万円。総売り上げの55%程度が人件費、残りは維持費で消えてしまう。

 柏崎市は、4,200万円のうちの900万円を担う大口のスポンサーだ。災害放送終了後、FMピッカラは、経営的な苦境を乗り越えるための予算組みを検討してもらえないかと市に持ちかけた。9月18日の市議会では市長がFMピッカラの貢献について感謝の言葉を述べ、更に「防災行政無線とFMピッカラの相互連携を図っていく。スポンサーの減少による経営難を認識している。市としても支援をしていきたい」と今後の関わり方にも言及した。

 しかし、具体的にどのような根拠でいくらの予算を組むかという点については2007年度末まで決着がつかなかった。「CMを倍にして放送できるなら2重取りになるのではないか」というのが市の言い分だ。結果として請求額の満額が市から支払われたものの、今後起こりうる災害を見据えた協定などが新たに結ばれることはなかった。災害時のコミュニティ放送の活用は市の防災計画のなかに元々入っているものの、具体的な対価などの取り決めはされていないのが現状だ。災害放送が終わっても、行政との連携の形は模索が続く。

普段の関係が浮き彫りに

 災害放送が浮き彫りにしたもの、それは市民や自治体を含む地域コミュニティとの関係だ。

スタジオ内の高橋裕美さん(後ろは近所の柏崎高校生からのメッセージ)

 「災害放送は何度も経験してきましたが、今回ほど人と人とのつながりを感じたことはありません」と高橋裕美さんは振り返る。

 「情報の集まる場所から放送する、情報を寄せてもらうということが開局当初からの方針でした。コミュニティ放送の役割は、実は情報を発信することではないのです。リスナーから寄せられた質問、基本的な安全に関する知識の共有、そういった双方向のやりとりというものを、災害のときにコミュニティ放送は流しているのです」と前田さんは言う。

 中越沖地震の後、FMピッカラは命をつなぐ情報の集積地になった。被災地のリスナーとの相互のコミュニケーションを通じて命を守り、被災地の生活の不便さを軽減し、心を癒したのがFMピッカラの災害放送だった。そのような役割は、災害放送のためだけに臨時に設置された放送局には決して担うことができない。局員の迅速な対応は、過去の災害放送を含む数々の経験の賜物だった。普段からリスナーとのコミュニケーションをとっているからこそ、いざという時に役立つ情報が集まった。放送を通じて被災者の心をケアするという、行政には手の届きにくいサービスも提供することができた。

 ただし、災害放送時のFMピッカラの活躍は局員の善意に支えられていた。スポンサーが地域に集中しているコミュニティ放送局にとって、地域が打撃を受けるということは自身の存続も危うくなることを意味する。地域の安全と安心を支える基盤を、人の善意のみで維持するのはあまりに脆弱だ。行政をはじめ、周囲とのネットワークをより確かなものにしなければならない。FMピッカラが市役所に対して自ら声を上げたのは、その第一歩だといえる。

 中越沖地震を機にFMピッカラとの関わりを見直したスポンサーもいる。例えば、大口スポンサーの一つである東京電力は、「有事の際には1時間以内に情報提供をする」など新たな取り決めを契約書に盛り込んだ。

 FMピッカラの聴取率は震災前でも15%。新潟県内でも上位に入る。テレビや新聞などマスコミに取り上げられたことで全国の人に知られ、おかげで地域住民からの評価も高まった。「震災後、広告を出そうかと言ってくれる人も少しずつ、少しずつ増えてきました。それを今後の営業活動にどう導くことができるか。これからも新しい努力を継続していかなければ」と船崎さんは語る。

 災害放送をきっかけとして、今後、地域コミュニティとどのような関係を築いていくか。コミュニティ放送局が存続するための課題は、それを支え、時に支えられる地域全体の課題でもある。

神山資将(知識環境研究会)、根立俊恵(慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問))


評価と課題

 この項目の本文は、2007年7月の中越沖地震に対してのFMピッカラの対応に焦点を当てている。柏崎コミュニティ放送の理念や経営について知りたいと思い、2009年2月12日に同社を訪問し、大矢良太郎社長にインタビューを行った。長文になるが、このインタビューの内容を紹介しながら、この項を書いてみたい。

***

柏崎コミュニティー放送の大矢良太郎社長

 大矢社長は、1990年頃に柏崎青年会議所のメンバーから、地域を活性化するために何かをしたいという相談を受けた。大矢氏は「これからは情報化の時代」と考え、そこでの結論はケーブルテレビを開局しようというものだった。
 様々な検討を加えた結果、ケーブルテレビには初期投資が約30億円かかるとわかり、資金的に無理ということになった。

 そこに、郵政省が1市に1局程度の出力の小さなラジオ局の認可をするという話を聞き、これなら資金負担は大幅に軽くなると思い、1994年に会社を設立、95年6月20日に開局した。大矢氏は先行したコミュニティーFM局がどこも営業が不調で、経営に苦しんでいるのを知った。
 長野県御代田町の西軽井沢ケーブルテレビという、経営者が一人で放送し、さらにケーブルの敷設をしている放送局があることを知って、経費を切り詰めることが最大のポイントだと考えた。

 開局時は、大矢氏と正社員1人、契約社員3人の出発。有志から集めた資本金3000万円は、放送用のアンテナを立てる費用で消えてしまった。
 ところが、開局3週間後の7月11日に柏崎は記録的な大雨で河川が氾濫した。このとき、大矢氏は、携帯電話をマイクロホン代わりにして、最も危険な地区に出かけて、現場の模様を放送した。
 柏崎市の東を流れる鯖石川の西岸にある藤井地区に、川の東岸にある日吉小学校への避難勧告が出た。橋は濁流に呑み込まれそうで、渡れる状態ではない。大矢氏は、西岸の小学校に避難するよう放送した。

 市の勧告と放送が全く逆の誘導をしたことは、柏崎市長に伝えられた。市のマニュアルは西岸の日吉小学校を避難場所にしていたが、市長は「現場を見ないで、盲目的に避難勧告をしたのは誤りだった」と誤認を認めた。
 この年は8月末までの約2カ月に3回も災害対策本部が置かれるほど、災害が集中した。そのたびに、FMピッカラは生放送で対応した。このことで、市民の間にピッカラの存在が認知されるようになった。

 ピッカラは、当初から市民の応援を得ていた。予算が限られるため社員は最小限とし、大矢氏は「日本一小さなラジオ局」を標榜した。そこで、番組制作、広報、営業について市民40人ほどがボランティアで協力した。20秒のCM1本が3000円。それを5本、10本と集めてくれる人たちだった。
 災害放送の効果で、柏崎市と東京電力から協力金が出るようになった。

 現在、柏崎コミュニティ放送の社員は7人。年間予算は約5,000万円。今年夏には、市町村合併で柏崎市になった旧西山町、旧高柳町にサブのアンテナを立て、市域の9割をサービスエリアに取り込む方針だ。

 大矢氏はかつて、日本コミュニティ放送協会の代表理事会長も務めるなど、業界のリーダーの一人。「コミュニティFMは、提唱者の木村太郎氏の経営する神奈川県葉山市の湘南ビーチFMのようにレジャー客を相手にした放送局など、地域特性に応じた性格がある。FMピッカラは、地域の安全・安心の核でありたい」という。

 1999年に茨城県東海村で放射能漏れ事故が起きたのを契機に、柏崎市では、翌年、全戸に防災行政無線の端末が配布された。従来は、屋外のスピーカーで緊急放送をしていたが、冬は窓を閉め切っているし、災害時は取材のヘリコプターの音などで声が聞こえないからだった。
 しかし、車に乗って外出していると防災行政無線は役立たない。そこで、災害時には、柏崎市の防災行政無線が、FMピッカラの放送に割り込み、それに続けて、ピッカラのアナウンサーが関連情報を放送するという分担ができている。そうした理由もあって、FMピッカラは、柏崎市役所の屋上にアンテナを設置している。

 大矢氏は、「地域経済が疲弊する中での営業は苦しい。全国のコミュニティFMで採算が取れているところは数えるほど。やはり出力を上げ、カバーエリアを広げないとダメだ」と、全国の仲間と一緒に総務省に働きかけている。
 中越沖地震のノンストップ放送で全国的に有名になり、柏崎市民からの義捐金も集めたFMピッカラだが、それを次の飛躍につなげようとしている。放送部長の船崎幸子さんは、日本経済新聞の「私の履歴書」に範を取って、ラジオ日経の番組内で「柏崎発!社長の履歴書」という30分番組を始めた。地元の実業家の素顔を紹介することで、地域経済の活性化につなげようというものだ。

 また、ピッカラは、インターネット放送を行っている。イタリアに住む柏崎出身の女性からは、「ふるさとの話題に心が和みます」というメッセージもあったという。

***

 地域情報化の中で、放送が持つ役割はかなり大きい。民放テレビ局は、自主放送率が低く、東京のキー局の番組の送信がメインだが、ケーブルテレビ局やコミュニティ放送は、地域の情報ハブとして期待され、それに応えようと必死の努力をしている。
 地上波テレビ放送のデジタル化の完了が2011年7月に予定され、電波の再編成が本格的に始まる。
 放送と通信の融合の問題、インターネットでテレビ放送をするかどうかの問題など、放送は様々な問題を抱えている。片方でビジネスの問題であり、片方では国民・地域住民の安全と安心の問題だ。
 そういう中で、ケーブルテレビ局の中海テレビ放送の地域密着の報道姿勢、あるいはコミュニティFMであるFMピッカラの地震関連の24時間放送など、現場の人たちは必死の努力で、放送資源を活用している。
 こうした資源をより健全に育てていくために、放送大改革の中で、しっかりした議論をすべきだと痛感する。

(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 特別研究教授 坪田 知己)

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