【ネット時評 : 楠 正憲(マイクロソフト)】
ライフログ活用が社会に受け入れられるために~インターネットのトリレンマ(4)

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 「ライフログ」を巡る議論が活発化している。個人がインターネットで検索したり購入したりした履歴を記録してサービスに生かす例が増える一方で、顧客の行動履歴を取得・保存することについてはプライバシーの観点から懸念する声も多いためだ。(本稿は「NIKKEI NET IT PLUS」に掲載したものです)
 

■夢の機能が現実に
 
 ライフログのコンセプトは1945年にヴァネバー・ブッシュ氏が発表した論文に出てくる記憶を助ける機械「Memex」まで遡ることができる。1980年代からは身につけたカメラやセンサーの情報を記録する研究が盛んに行われてきた。マイクロソフトも1990年代からMyLifeBitsという研究プロジェクトで、人生で触れる情報を丸ごとデジタル化して活用する試みに取り組んでいる。

 例えば服部真澄氏がSF小説『エクサバイト』で描く「ユニット」のように、利用者の視覚を常時記録するデバイスの実用化には、まだ時間がかかると予想される。しかしすでに家電のデジタル化やネットワークの高度化によって、端末の位置情報や検索・購買・コンテンツの再生履歴、体重や運動量の推移など、多くの履歴がデジタル情報としてサーバーに蓄積されるようになっている。これらの履歴を広義のライフログとして活用し、これまでよりも精度の高い検索結果や広告、健康指導などを提供しようというサービスはもはや珍しくはない。

 履歴を活用したサービスとして最も知られているのは、アマゾン・ドット・コムが利用者の閲覧・購買履歴に基づいて商品を「おすすめ」する機能だろう。最近ではアップルが昨年秋に公開したiTunes 8から保有する楽曲や再生回数などに基づくプレイリスト生成サービスを提供している。グーグルも3月12日に閲覧履歴に基づいて興味・関心に合わせた内容の広告を表示するテストを始めると発表した。マイクロソフトも3月4日にターゲティング広告の発売を開始している。

 国内勢ではNTTドコモが昨年末から利用者のスケジュールや住所などを元に必要な情報を自動的に提供する「iコンシェル」を始めた。ドリコムと楽天は昨年夏からWeb閲覧履歴に基づく行動ターゲティング広告を提供している。


■事前規制はイノベーションを阻害

 産業界でライフログの活用が進むのを受けて、行政などによる公正競争や消費者保護のためのルール作りも始まっている。早くから規制に積極的な欧州では、英国が2003年通信法で行動履歴の追跡に使われるクッキーの運用に厳しいルールを課したほか、2008年4月に欧州委員会の諮問機関Article 29 Data Protection Working Partyが主要な検索エンジンに対し、収集した利用者の活動履歴を半年後に消去するよう提案する意見書を出した。米国でも連邦取引委員会(FTC)が2007年12月にターゲティング広告のプライバシー原則を提案している。

 日本でも経済産業省のパーソナル情報研究会や、総務省の通信プラットフォーム研究会で、履歴情報の活用の在り方が活発に議論された。いずれの研究会も拙速な結論は出さず、これからガイドライン等で具体化する方向を打ち出している。

 議論は重要だが、利用者にとっては具体的なサービスや紛争事案が明らかにならない限り、事業者が履歴をどう管理しているのか、それが自分の生活にどう影響するのかを想像することは難しい。Webが普及しつつあった1996年ごろ、安全な電子決済手段がないため電子商取引が普及しないという問題が指摘されていた。クレジットカード番号を商店に渡さず決済を行うSET (Secure Electronic Transaction) や様々な電子マネー技術が開発されたが、いずれも複雑で普及しなかった。しかし実際には楽天やアマゾンといった便利なECサイトが増えるにつれて、多くの利用者は抵抗なくネット上でクレジットカード番号を打ち込むようになった。電子商取引の便利さと引き換えに、多くの消費者はECサイトにクレジットカード番号を渡すリスクを受け入れたのだろう。

 多くの利用者にとって利便性とリスクは比較考量の対象である。便利であれば多少のリスクを受け入れるイノベーターやアーリー・アダプターたちが、まず新たなサービスを採り入れメリットがあるかどうかを判断する。サービスが具現化する前に事前規制してしまうと、利用者の利便性やイノベーションにブレーキを踏んでしまうことも懸念される。


■技術やサービスは進歩

 現段階でサービスに広く活用されている購買履歴や位置情報は、利用し始める段階でプライバシーに関する条項を含む約款に合意している場合が多く、事業者と利用者との契約として整理すれば問題は生じにくいと考えられる。しかし技術やサービスは進化する。例えば普及が進みつつあるターゲティング広告はサービスの性質上、事前に利用者の承諾を取ることが難しい。

 利用者だけでなく、被写体のプライバシーが問題となることもある。規制の厳しい欧州ではグーグルのストリートビューは、肖像権やプライバシーに配慮して、被写体の顔や車のナンバーをぼかしている。いずれ顔認識機能などを活用して名前から画像が検索できるようになれば、写真共有サイトに掲載した写真までが個人情報に当たることになるのだろうか。

 現行の日本の個人情報保護法では、必ずしも氏名など個人情報とひも付いていないIDや、認識技術によって個人とひも付け得る画像、活動履歴などの扱いを規定していない。当時は住基ネットへの賛否にばかり議論が集中し、ネット広告の隆盛やライフログの活用といった将来の技術やサービスの進化にまで考えが及ばなかったのだろう。欧州のように独立した権限を持つプライバシー・コミッショナー制度がないため、管轄が複数の省庁にまたがるサービスに対して監督が行き届かない。特に現行の個人情報保護法が想定していないプライバシーに関連する紛争事案について、政府は責任を持って迅速に対応できる体制となっていないのである。


■政府は原則を示し、民間は自主規制を

 ライフログについて議論している政府関係者や企業の間では、特定の検索エンジンや広告ネットワーク、ECサイト、携帯電話事業者などに情報が集中してしまい、競争条件が不均衡となることへの懸念がある。新規参入事業者に対するオープン性と、利用者のプライバシーとの両立は、SNSのオープン化が進む過程で模索されている段階にある。

  反対に利用者や消費者団体には、利用者に断りなく個人のプライバシー情報が広く活用されることへの不安が高まる可能性が考えられる。ライフログを活用したビジネスを軌道に乗せるには、事業者が利用者の情報を適切に管理し、利用者ひいては社会からの信頼を勝ち取る必要がある。

 米国ではターゲティングを望まない個人が簡単に追跡を拒否できるようにする仕組みを用意するなど、業界の自主規制で対応している。日本でも米国の動きを踏まえて、インターネット広告推進協議会が民間主導で、行動ターゲティング広告のガイドラインを取りまとめているところだ。

 政府は国際動向や民間の自主的取り組みを注視しつつ、日本に本拠地を置く事業者が不利にならないよう慎重に対処すべきではないか。日本だけで厳しい基準をつくっても、海外を本拠地に日本人向けのサービスが提供されれば、かえって日本のネット産業が空洞化してしまう。

 ライフログを活用する技術やサービスが揺籃期にあって、今後も省庁の枠を超えてサービスが融合することが予想される。新たなサービスに対してガイドライン等を通じて個別に規制する前に、誰もが守るべきプライバシーの原則について法制化を図ることも考えられる。
 
 

<筆者紹介>楠 正憲(くすのき まさのり) マイクロソフト 法務・政策企画統括本部 技術標準部 部長 
1977年、熊本県生まれ。ECサイト構築や携帯ネットベンチャー等を経て、2002年マイクロソフト入社。Windows Server製品部Product Manager、政策企画本部技術戦略部長、技術統括室CTO補佐などを経て2009年より現職。

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