【地域情報化の現場から】
【CANフォーラム共同企画】第20回「『映画の神様』が西条市に舞い降りた」

撮影クルーに参加する市民スタッフ
 「映画の神様は存在する。できると信じればかなわないことはない」プロデューサーの越後啓子さんは力強く、笑顔で言い切った。
 2004年11月、2市2町が合併して出来た愛媛県西条市。合併記念に市民参画型のオリジナルショートムービー、『恋まち物語』の制作に取り組んだ。製作開始が2005年4月、上映は7月31日(日)の合併記念イベントという3ヶ月半の“短期決戦”だったが、市民の2,000人以上がキャスト、エキストラ、スタッフとして協力し、空前の盛り上がりを見せた。

制作スタッフ募集のチラシ
 『恋まち物語』は、峰岸徹、藤岡弘、(特別出演)などの銀幕スター、西条市出身の西興一朗らが出演した、短編ながら本格映画だ。監督はこれまでにも、商店街を舞台にした市民参画型映画「らくだ銀座」(第17回東京国際映画祭正式出品作品)などを手がけてきた林弘樹氏(33)。撮影は名カメラマン今泉尚亮氏が担当した。ヒロイン岡崎晴子を演じる石井あす香は、公開オーディションでの名演技で主役を射止めた新人女優だ。

 『恋まち物語』は、東京で美容師を目指すため、父の猛反対を押し切って故郷西条市を飛び出した主人公晴子が、数年後、美容師ではなく、国語教師となる「教育実習生」として、故郷へ戻った葛藤の日々を描く。上京に猛反対した父は既に他界し、葬儀にも戻らなかった晴子への風当たりは強い。しかし家族との再会、晴子を「運命の人」と呼ぶかつての同級生玲於奈(西興一郎)や、実習先の中学校での指導教師辻(峰岸徹)との出会いを通じ、晴子は父の死を乗り越え、改めて故郷から「未来への一歩」を踏み出す。

何もかもが型破り。それでもできると信じれば叶う

 林監督のblogには4月4日の日付で、「う・・・うれしい!愛媛県西条市で映画を創ることになった」との書き込みがある。映画制作は平成17年度予算で執行され、林監督率いる有限会社FireWorks(以下、FireWorks)が、映画制作を行うことが正式決定したのは、新年度に入った4月のことだ。これは、西条市が当初から合併記念に映画製作を考えていたわけではなく、合併記念イベントに関するコンペで、FireWorksの提案が採択されたにすぎない、という事情による。
 型破りなスケジュールはこれだけでない。様々な事情も絡み、6月18日に開始したロケの10日前まで、峰岸徹、西興一朗の出演も、今泉カメラマンの起用も決まっていなかった。市役所には、ロケの受け入れ準備を進めていた市民スタッフから、「市役所はなぜ情報を隠すのか」と抗議の電話が入ったほどだ。しかし越後啓子プロデューサーは、「ピンチはチャンス。直前だったからこそ、スケジュールがたまたまあいた俳優さん、カメラさんがこの現場に入ってくださることができた」とどこまでもポジティブに言い切る。越後啓子さんのblogを読めば、ロケ10日前の混乱、そして彼女の心痛がどれほど大きなものだったのかがわかる。FireWorksの取り組みに共感する映画制作会社、楽映社の前田茂司社長の絶大な支援もあり、今泉カメラマン、峰岸の紹介、機材などが、18日のロケまでに整った。

 ロケは予定通り、6月18日(土)から10日間の予定でスタートした。梅雨真っ最中にもかかわらず、雨は一度も降らなかった。ロケが1日伸びれば、巨額の費用が必要となり、また俳優のスケジュール、支援する市民ボランティアの調整も簡単ではない。映画の神様が天気にまで力を及ぼしたのか、西条市の現場は、天候まで幸運に包まれた。
 さらに、地元企業から資金提供の申し出が相次ぎ、30分のショートムービーは、ロケの半ばで45分に変更され、最終的には63分の本格映画となった。

誰も座らない~あるロケの1日~

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駅での撮影風景
■午前
 ロケも終盤に差し掛かった6月25日(土)。30度を超える真夏のような晴天のもと、この日は午前中に、JR予讃線壬生川(にゅうがわ)駅での撮影が行われた。
 「はいテスト行きまーす」「はい本番」。撮影の進行を受け、『ロケーション班』の市民スタッフが、「静かにしてください」「リハーサル」「本番」などと書かれたフリップを高々と掲げる。俳優たちに冷たいおしぼり、飲み物を絶えず準備していくのも市民スタッフだ。主人公役の石井あす香を取り囲む役者の一部も、公開オーディションに受かった市民たちだ。

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 高校生の三好真美さん
 さらに驚くべきは、撮影チームの一員にも市民スタッフが加わっていることだ。これは、一般的な映画制作現場では考えられないことだ。監督に張り付いて、コードを巻いたり、機材を運んだり、監督から片時も離れずに行動する三好真美さんは高校3年生。映画制作スタッフになりたいという夢を持ち、東京の映画制作専門学校への進学を希望していたところへ、地元西条市での映画の撮影のニュースが飛び込んできた。撮影チームの一員に加えてもらい、撮影現場を間近で体験しているこの10日あまりの生活は夢のようだと言う。ここまで本格的な映画撮影が展開されるとも、ここまで自分をスタッフとして仕事をさせてくれるとも思っていなかった。

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炊き出し班は大忙し
■午後
 撮影現場が市内の禎端地区難波の民家に移る。西条市は水郷都市としても有名な地で、付近は海抜より低いゼロメートル地帯。主人公の実家という設定で、市民の住居を借りての撮影が続く。
 この日は、主人公の帰郷を祝っての宴会シーンの撮影が行われた。宴会を彩る料理の数々も、市民スタッフたちの手によるものだ。通常はスタッフの食事を準備する『炊き出し班』が、朝から総出でつくりあげた。
 宴会シーンの撮影には、西条市出身で、現在東京で劇団を主宰する高木順巨さんも加わった。映画撮影の話を聞き、公開オーディションを受けての参加だが、そこはプロ。市民エキストラをリードし、監督に大いに感謝されながら、地元での芝居を楽しんだ。

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消防車の出現
■夕方
 夕暮れ時には、2台の消防車が出現した。夜に雨のシーンを撮影するため、市の消防署が協力したものだ。今回の映画製作の予算は、通常の相場からいえば、ヒトケタ低い。そのため、市も場所や機材の提供など、協力を惜しまない。ただし、市の消防車を借りるということは、ロケ当日に火事が発生すればロケが行えないというリスクを抱える。
 そうした様々な葛藤を超えて出現した時ならぬ消防車に、近所の人たちも、何事かと集まってくる。

 日暮れ前にリハーサルが行われたのち、いったん休憩。『炊き出し班』が作った夕食をいただく。この日は、宴会料理のおこぼれも加わり、豪華絢爛なメニューだ。
 この日ばかりではなく、西条市の現場では予算がないために、ロケ期間中毎日、『炊き出し班』が暖かな昼食、夕食をふるまった。予算があれば、冷たいお弁当が出るところ、をである。越後啓子プロデューサーは、「だから私たちの現場には、多少条件が悪くとも、皆さん喜んで駆けつけてくださる」と胸をはる。

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幻想的な雨のシーン(写真提供:越智啓子プロデューサー)
■夜
 この日の撮影は、夜の10時過ぎまで行われた。消防車が土砂降りの雨を降らす、幻想的な現場に、炊き出し班の市民スタッフたちも集まってくる。市民スタッフたちも早朝から立ちっぱなしで働いているはずだが、誰一人として座らない。全員が立ったまま、収録シーンを遠くから見つめ続ける。
 「監督をはじめとする映画制作スタッフたちが、走り回りながらロケを続ける現場で、よい映画をつくりたい、とみんなの気持ちがひとつになるから、誰も座らないのかな」と越後啓子プロデューサーは笑う。

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小道具班、深夜の打ち合わせ
■深夜
 そしてロケ終了。しかしスタッフたちはまだ帰らない。市民スタッフのベースキャンプに戻り、翌日の打ち合わせだ。市民スタッフのリーダー、「はっちゃん」こと鈴木初恵さんは、この日1日、電話番を中心に、ベースキャンプをほとんど1人で守り続けた。リーダーだからこそできる縁の下の力持ちだ。「私は毎日ロケの現場にいるので、土日は、ふだん行けない人が担当したほうがよい」と笑って言い切る。
 監督に張り付いて撮影の手伝いをする高校生の三好真美さんは、カメラの今泉さんに「レポートを提出するように言われた」と、疲れもみせずに原稿用紙を広げている。

 一方、市民スタッフと一体となって現場を見守り続ける西条市の職員、梶本環さん、吉井靖仁さんは、「ここのところ、市役所に行くのは、ゴミ捨てのためだけです」と笑いながら、その日に発生した大量のゴミを抱え、深夜の市役所に「出勤」していった。

2ヶ月で70名のコアな市民スタッフを確保

 4月半ばに始まった映画制作は、開始後2ヶ月余りで、連日(平日は夜、週末は終日)活動に参加するコアメンバーだけでも、70名もの市民スタッフを育て上げた。6月18日から10日間行われたロケ期間中は、勤め先で有給やボランティア休暇を取るなどして、朝から晩まで、平日も現場に駆けつけた市民スタッフも多い。

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ロケーション班のみなさん
 市民スタッフは、『エキストラ班』『小道具班』『スケジュール班』『ロケーション班』『炊き出し班』『メイク・スタイリスト班』に分かれ、それぞれの持ち場でロケを支えた。

 こうした市民の動きを受け、西条市の担当セクション(行政改革推進室地域調整係)では、梶本さん、吉井さんが、平日も夜半まで、週末もつきっきりで、市民スタッフの活動をサポートした。室長の高橋貴晴さんも、時間をみつけては現場を訪れ、休日には差し入れをするなど、公私を超えたフォローを惜しまない。

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左から西条市役所の吉井靖仁さん、高橋貴晴さん、梶本環さん
 映画製作の担当セクションがなぜ「行政改革推進室」なのかといえば、前述の通り、FireWorksの提案が合併記念イベントのひとつとしてコンペで採択されたという事情による。予算規模の限界もあり、当初は、まさかこのような本格的な映画製作が行えるとは夢にも考えておらず、監督や脚本家による市民養成講座のようなものが開ければよいと、市役所サイドでも考えていたという。しかし、林監督や越後啓子プロデューサーとの信頼関係が生まれ、彼らの物づくりにかける意気込み、市民の盛り上がりを前に、吉井さんは「FireWorksさんと出逢った我々は本当にラッキーだった」と語る。

 翌6月26日(日)には、NHK松山放送局が、こうした市民スタッフたちの取材にやってきた。この日は市民スタッフが文字通りの主役。市役所の梶本さんの案内で、各班のリーダーたちがインタビューを受けていく。
 「はるちゃん」こと、『小道具班』の木下春江さんは、4月に西条市に越してきたばかり。『炊き出し班』の若松雪恵さんは詩集も出版するライターの顔も持つ。「よっちゃん」こと『ロケーション班』菊川善江さんは専業主婦。様々な経歴を持つ市民スタッフたちが、異口同音にインタビューに答えていたのが印象的だ。「たった二ヶ月で、これまで会ったこともなかった人たちと共同作業していることが何より楽しい」と。
 「西条市のためによい映画を製作したい」という一念が、市民、企業、行政の共通の目標となり、地域を突き動かしていた。

越後啓子プロデューサーの思い

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越後啓子プロデューサー
 林監督、越後啓子プロデューサーらFireWorksのスタッフは、こうした映画制作を、市民との協働による街づくりのきっかけと位置づける。映画制作は、短期間のうちに、プロジェクト運営、集団行動のマネジメント、資金集めなどの街づくりのノウハウを体験する絶好の場だ。さらに映画は、自らの街の良さを見直すきっかけとなり、またプロのつくり手たちが制作した、「映画」という永遠に残るコンテンツが手元に残る。

 出会った人々を次々に口説き落としていく越後啓子プロデューサーは、スタッフから「魔女・越後P(プロデューサー)」と呼ばれる。が、実はほんの3年前まで、福島県白河市に住む専業主婦だった。なぜ専業主婦だった方が、映画のプロデューサーを担えるのか質問すると、「主婦業はプロデュース業でしょ?」とあっさり答える。得意の料理を活かし、毎週末にたくさんの人を集めてパーティを開いていたところ、やがて行政から注目されるほどの規模に発展した。行政からさまざまな委員を委嘱され、ときには地域おこしのコンサルテーションを頼まれるようになったのだ、という。そうした地域活動を行うなかで、後述する林監督との運命的な出会いがあった。

 越後啓子プロデューサーの思いをあらわす、blogの一説を紹介しよう。

2005年6月26日
 西条市のボランティアスタッフの活躍はもう目をみはっちゃうのです。初め、プロも地元スタッフも戸惑っていたが、ボランティアたちが、どんどんプロの製作スタッフと同じ動きになって行く・・・。早朝から深夜まで、それこそ食べるだけの時間で働いている製作スタッフの姿は市民のココロを打つのです。そして、地元の人達を、お遊びごとくらいに考えていたプロの製作スタッフたちも、現地の真剣さ、慣れないながらも楽しそうに作業に汗を流すボランティアの懸命さにココロがほぐれて行く・・・。今や、プロもボランティアも動きに差はない・・・・・・。

 確かにプロにとってはやりにくい環境である。でも私は初めて映画製作に参画したとき、彼達の姿に感動し、目からウロコが落ちた。この時代に、こんなに徹底的にやり抜くやつらがいたのだと涙が出て来て仕方なかったことを昨日のことのように覚えている。彼等の仕事ぶりを見て欲しい・・・そう思った・・・。 地域活性とかなんとか、がたがた云ってなにも行動に興さない「まち興し」に関わってる人達に見てもらいたかった・・・。

 しかし、いつも真剣勝負で臨むプロのスタッフたちにとって、今回の製作は戸惑いだらけだったろう。でも、ここで産まれる西条市の映画は、システムだけが先行して、体温のないココロで作ってはいけない。 映画だけに関わらず「モノ創り」は、カタチでなく、その魂とか思いとか志がノリ映ってしまうと信じている。「モノ」が命を救ってくれたり、身替わりになってくれることがある。大事にした「モノ」、自分の思いを込めた「モノ」は自分と同化するのかもしれないと思っている。
 だから、この映画はプロセス中に魂を、志をふきこまれてしまうのだと思い、いつも自分達のココロ持ちを試される・・・。製作スタッフたちも、まちの人達とのぎこちない関わりの中で、何かを確かに感じて行く・・・。それが作品に映しだされれていくのだと思っている。そういうものだと信じている。
 そして、西条市民のみんなの映画に対する憧れとか、夢ふくらむ思い、無欲な無邪気さがさらにこの作品の品質を高めて行くのだと思う。

 林の作品を誰一人見ていない西条市での映画製作です。ロケ前「監督はニックネームですよね。」と林監督に云っていた市役所の人が昨日私にこう云ってくれた・・・。「こんなに多くの人達が、こんなに一生懸命がんばって楽しんでいるのだからイイ作品にならないわけがない・・・」と・・・。

 そういうことなんです。みんなの思いがカタチになる!映画は「無から有」を生ずる・・・のです。それも短期間でね・・・。

 究極の「モノ創り」です。それは、「人づくり」「まち創り」の究極の「きっかけ」になるのです。

林監督の思い、そしてFireWorksという会社

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林弘樹監督
 ロケの現場では、監督は「神様」であり、制作に集中しているため、監督への取材は控えてほしい、と越後啓子プロデューサーからは注意を受けていた。
 しかし、後日、FireWorksのオフィスを訪問すると、ロケ現場では「神」だった林監督が、お茶をいれて出してくださった。ロケで黒光りするほどに日焼けした、まだ30代前半の若い監督だ。

 林監督自身の経歴も変わっている。中学生のときに観た「ニューシネマパラダイス」に強い感銘を受け、その世界の中に入りたいと願う。小さい頃は医者を目指していたが、大学進学時に突然文科系に転向。映画は20歳になるまで一人で観たことがなかったが、19歳で映画をつくりはじめる。作品を観た人に「面白い」と言われてますますのめり込む。
 就職時には、レンタルビデオ屋で会社名を調べて手紙を書き、押し掛けて、映画会社に就職した。ご本人はラッキーだったと言うが、黒沢清監督、伊丹十三監督の最後の作品、原田真人監督などの現場に立ち会わせてもらう中で、なぜ自分が映画をやりたかったのかを考えていった。10代のときにぼんやり考えていた、「いつかニューシネマパラダイスのような映画をつくらなければ死ねない」という自分の思いを再確認する。
 そんな頃、椎名誠さんが映画の地方巡業ツアーを展開しているのを知り、自分の作品も全国巡回ロードショーができないかと考えついた。上映は小学校の校庭でもよいし、花火大会などの地域のイベントとの共催でもよい。

 何かできないかと考えていた頃、脚本家の栗山宗大さんが、「夜の商店街をラクダがのそのそ歩いている夢を見た。映画のラストでは日本中の商店街がエンドロールのように出てくる」と監督に語る。
 「商店街を舞台にラクダが出てくる映画がつくれるかもしれない。その映画を、映画館だけでなく、商店街の様々なイベントで上映することを通じて、地域の活性化が図れないか」。

 こうして林監督は全国の商店街を歩いて廻り始めた。シナリオも企画書もなし。キャストも当然お金もなし。仲間は10人程度の若いクリエーターたち。
 しかしインターネットでスタッフを募集したところ、数ヶ月で10代から50代まで200名以上の応募が集まった。関東近県の500カ所以上の自治体、商店街、商工団体などへの監督自身のPR活動も実を結び、三鷹市と福島県南12市町村(以下、福島県南地域)で、映画制作の支援体制が生まれた。これが映画「らくだ銀座」誕生のきっかけであり、監督と福島県白河市在住の主婦、越後啓子さんとの出会いだった。
 その後、行政も全面支援し、豪華なキャストも集まり、支援者も数万人規模にまで拡大し、福島県の行政から法人化が必要と指摘され、市民参画型の映画制作を行うため、監督自ら起業したのが有限会社FireWorksだ。

 林監督は、「映画とは、本当は生活に根ざしたもの。制作会社、配給会社などが入って距離ができてしまったが、それを原点に戻したい。たくさんの人を巻き込んで、市民参加型で映画をつくる。公開もみんなの手で回していく。映画は監督のものではなくてみんなのもの。自分たちの、私たちの、俺たちのものだと思ってほしい」と語る。

「映画」というきっかけが生んだもの

 こうした思いは、映画制作のプロセスすべてに反映されている。西条市では、まず4月に監督と市民が同じバスでロケハンツアーを行った。次に脚本家栗山氏による3日間の「脚本塾」、林監督による2日間の「監督塾」を開催し、映画制作の一端を市民が経験する場をつくった。脚本塾も監督塾も、座敷(和室)で、文字通り膝をつきあわせて開催され、監督、脚本家と市民が、わいわいがやがや議論し、さらに実際にごく短い作品も制作した。

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応援メッセージ
 さらに、5月中旬。一人でも多くの市民に映画制作を身近に感じてもらうため、映画への応援メッセージを収録した。2日間のロケで延べ約2,000人の市民が応援メッセージに出演した。このメッセージは、映画本編と同時に約15分間のメッセージビデオとして上映した。飛び込みでの撮影を含めた2日間の応援メッセージの収録を機に、市内外からの反響が増え、30分予定だった映画を最終的には63分に延長する地元企業からの資金援助へもつながることとなった。

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作曲を手がけた市民の越智明子さん
 さらに林監督は、映画音楽の一部を、市民スタッフとして参加していたピアノ講師越智明子さんに依頼し、作曲してもらった。
 こうした動きを、集まった市民スタッフたちを鼓舞し、ときには叱責しながら、越後啓子プロデューサーが支え続ける。もちろん、ここに至る道のりは、決して平坦なものではなかった。時にはどなりあいのけんかもした。毎日毎日、これでもかというくらいの問題が次々に起こった。それでも越後啓子プロデューサーは、「時には私が悪者になればいい。孤独な役割だけど、正しい気持ちは正しいと信じ、何者にもとらわれずに楽しみながら行動する市民の皆さんに支えられて行動してきた」と語る。

 そして、ロケ終了と同時に「次」を考える市民たちの動きが始まった。市役所の吉井さんは、市民スタッフたちが「自分たちの映画をつくりあげたことで自信を深めた」と感じている。市民スタッフたちは、西条市の11万人全員に映画を観てもらうための自主上映会の開催、関連グッズのPR販売、フィルムコミッションとしての映画支援活動など、それぞれの道を歩み出そうとしている。

試写会

 2005年7月28日(木)。31日の合併記念イベントでの上映に先立って、市民スタッフを招待した試写会を開催した。
 まずテレビ愛媛が市民スタッフに2ヶ月密着取材して作った1時間のドキュメンタリー(テレビ愛媛が7月23日に放映したもの)、次いで、延べ2,000人以上が出演した15分間の応援メッセージを上映した。会場内の市民スタッフが、次々にスクリーンに登場する。「あ、あの場面」と笑いが生まれ、時には目頭が熱くなる。

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試写会で挨拶する林監督
 期待が最高潮になったところで、本編の上映が始まった。会場が一体となってスクリーンを見つめる。試写会冒頭に、林監督は「映画はつくり終えて完成ではない。たくさんの人に観てもらうことで価値が生まれる」と挨拶した。まさにこうして皆が気持ちをあわせ、ひとつのスクリーンを見つめることができることが、映画の良さのひとつなのだろう。

 タイトルロールには、地元西条市のたくさんの企業の名前が流れていく。これだけの地元企業が応援した映画が、類を見ない。
 市役所の吉井さんが「一番緊張した」と語るエンドロール。エキストラで登場した市民スタッフ、そして最後に「恋まちプロジェクトスタッフ」として、会場にいる市民スタッフの名前が次々に流れていく。
 何よりもエンドロールが重い映画を、私ははじめて観た。

追記

2005年7月31日の合併記念イベントでは、3回の上映、各回500名の定員に2,700名の市民が詰めかけた。初回は、開場1時間前から長蛇の列ができ、舞台挨拶や本編前の応援メッセージ放映の間も警備員の制止を振り切りながら市民が次から次へと入り込み、結局1,300名(うち立見800名)が映画を鑑賞した。2回目も立ち見も含めて約800名、3回目も約600名と大盛況のうちに幕を閉じた、監督、プロデューサーはじめスタッフも、最後は安堵からか涙を止めることができずにいた、とのことである。

(CANフォーラム運営委員/慶應義塾大学政策・メディア研究科 高橋明子)

参考
恋まち物語ホームページ
らくだ銀座(有限会社FireWorks)ホームページ
林弘樹監督のblog(場末の映画番長)
プロデューサー越後啓子さんのblog(プロデューサーkeiko姉さんの部屋)

評価と課題:「同志へ」

 2004年の秋ころだったか、愛媛県南予地域で開催中の「えひめ町並博」にファイヤーワークスの越後啓子プロデューサーと林監督が訪ねてこられた。大洲、内子、宇和をはじめ28市町村(当時、現在9市町)にわたる広域のエリアを舞台に、住民の地域づくりの活動を観光資源としてアピールしようという「パビリオンのない博覧会」が、地域づくり・イベント関係者から注目を集め始めた時期だった。

 町並博を契機に商家を旅館に改装した内子の宿「こころ」で深夜まで話し込んだ。県内は言うに及ばず他県からも越後・林両氏のファンというより“同志”が大勢話に参加した。テーマは「映画づくりとコミュニティ再生」に収斂した。両氏が熱く語る、「映画という共同制作作業のプロセス自体が地域の新たなネットワーク作りにつながる」という持論にさまざまな意見が積みあがっていった。

 「先ず、一人一人が自分のできること持ち寄って、力を合わせるプロセスが本来の祭りそのものだ」「映画づくりを通して新たな地元発見につながる」「子供たちにとても大きな影響を与える」などなど。その多くはまさに新たな地域づくりの可能性を感じさせるものだった。

 形こそ違え、住民の参画プロセスや情報化の手法が評価され、「日本イベント大賞」「日本PRアワードグランプリ」等各方面から注目を浴びた「えひめ町並博」と多くの共通点をもつ「映画づくりを通じての地域の活性化、その基盤となる情報化」の試みは時代の要請でもあると評価できる。

 一過性のイベントに終わらせないようにと継続性を最初から視野にいれ、様々な工夫と努力をイベント終了後の現在もなお続けている私から、あえて課題として指摘するとすれば、映画づくりという共同作業を終えたその地域との、その後の接し方だと思う。
一気にエネルギーを収斂させ一気に解放させるその手法は、ともすれば地元の人にとって熱病のような記憶だけを留める「いい思い出」になりかねない。地域の文化の継承や経済の活性化までをも視野に入れた、映画づくりとは全く別種の仕組みづくりが今後の課題だと思う。

 最後に、友人としての越後啓子プロデューサー、林監督にこの場を借りて一言。
 「情熱は伝わる。あとは如何に伝え続けるかだ!熱くクールに進もう。」

2005年8月18日
モンゴルより

(宮本倫明=「えひめ町並博2004」プロデューサー、メディアマーケット代表取締役)

 

この記事は、日経デジタルコアとCANフォーラム(地域情報化を推進する人々のための情報交換・交流を目的とした非営利団体)が共同で執筆しました。

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