【ネット時評 : 境 真良(経済産業省)】
新・情報通信法がメディアに求める「責務」

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ゆらぐコンテンツ産業の制度とビジネスモデル
 
 紙媒体とその兄弟達を除けば、私たちを取り巻く「情報環境」は、すべて、コンテンツ(視聴覚現象をデータ化したもの)と媒体とデバイス(コンテンツを再生して視聴覚現象に復元する機器)が組み合わさってできたものになっている。80年代から90年代中葉にかけて、コンピュータは一方では極小化、コモデティー化してそれこそ名刺大のカードにまで組み込まれる程になり、他方では視聴覚表現機能を大幅に進化させた。

 その結果、二つの革命、すなわちデジタル化革命(コンテンツのデジタル化)とインターネット革命(電気通信によるパッケージ流通の急速な代替)が起きた。それはすなわち、デジタルコンテンツ=IPネットワーク=コンピューターデバイスという組合せ、すなわちデジタル情報環境にこれまでの様々な情報環境基盤が融合、代替、統合されるということだ。

 このデジタル情報環境の上で、コンテンツはアナログ時代の媒体特性という保護をはぎ取られてしまった。また、従来の媒体複製技術の独占に基づく保護能力も今の流通企業は持ってはいない。テレビドラマをネットワーク上にアップロードされることを防ぐ能力をテレビ局は持っていないし、放送(とせいぜいがその後に発売されるビデオ、DVD)の収入しかテレビ局は集める力を持っていない。

 しかし、コンテンツ産業は、「その程度」のメディア事業者に企画を選別され、資金を独占され、場合によっては著作権を確保されている。この状況は、コンテンツ産業の発展のためには足かせになる。


新「情報通信法」の基本的性格

 総務省の「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」が六月にまとめた中間報告で明らかになった、いわゆる新「情報通信法」(以下、新法構想という)は、このフラット、というか大混乱したデジタル情報流通環境の中で、もう一度、情報流の流れを固めていこうという、誠実で壮大な試みの一端だ、と筆者は理解している。

 この制度調整の中で特に難しい点は、一方で新制度は旧来のメディア産業を包含しなくてはならないが、同時に、他方ではデジタル情報環境の長所を発揮した新たな利便性を提示しなくてはならないというところだ。単なる現状の移し換えではだめなのだ。放送産業についてみると、この困難なバランスは、今回の新法構想では、それは「メディアサービス」というくくり方の提案に込められていると思う。

 この言葉は「コンテンツに関する法体系」で登場するが、言葉ではコンテンツとなっているものの、これは従来で言うメディア事業に関する規制のことである。そういう目で見ると、ネットワーク上に出現する様々なコンテンツ配信事業者の産業と、地上波放送事業者に代表される旧来のメディア産業とを同じ「メディアサービス」という事業類型にしたことは、両者をなるべく公平な競争環境に置こうとする見識であるように見える。これは、これまでのハード・ソフト分離論に見られた旧来の事業者を解体するという考え方より、よほど建設的なものであろう。


メディアの特権と義務

 しかし、このデジタル情報環境における情報流の再構成に、どうしてメディア事業の再規定という手法を採るのだろうか。「放送と通信の融合」という文脈からは当然でも、情報流のルールを規定するというそもそもの議論に立ち返れば、これは当然の話ではない。

 実は、デジタル情報環境におけるコンテンツ内容の制御を行う方法として、メディア事業とその事業規制という考え方は唯一無二の方法ではない。例えば「映倫」は、何らメディア規制無しに、映画館業者の自主規制と、それに呼応したコンテンツ産業側の対応との連携により成立している。それでは自主基準である「映倫」は無制限に緩くなるのではないかと心配する向きもあろうが、2000年に映画「バトル・ロワイアル」公開の是非をめぐり国会まで巻き込んだ騒動が起きた例もあるように、市場にはこれを監視する勢力があり、また警察もあり、何より実際のビジネスでは内容も含めた定評が重要なので、そうはならないわけだ。「映倫」モデルが示唆するのはデバイスの取り扱いの重要性なのだが、これについては後で詳しく述べる。

 重要なことは、あえて「メディア事業」という枠組みを堅持するのであれば、その方が他の選択肢に比べ、よりよいことを説明しなければならないということだ。

 そこで、メディアの責務とは何かということが問題になる。すでに規定されているコンテンツ内容規制についてその是非、またその程度などの議論があることはもちろんだが、それ以外の視点もいくつか考えられる。それだけに、この議論には総務省やメディア事業者という当事者だけではなく、また、狭義のジャーナリズム論だけにとどまらない、より広い意見の集約が必要になるだろう。

 例えば、コンテンツ産業の目線からは、コンテンツ産業とメディア産業の関係性が問題になる。新法構想が言うところの、影響力の大きい「特別メディアサービス」とコンテンツ産業の関係が現在のままであれば、今以上にデジタル情報環境の中で積極的にビジネスモデルを開発し、もちろん自身も収益を得ながら、コンテンツ産業側に収入を還元していく責務をもっと果たすべきである。そもそも、特別メディアサービスについて事業者数を現在のように限定するのであれば、電気通信事業法でも事業者に料金規制がかけられているように、参入規制に見合った収入規制を論ずべきだというのが産業法制の常識である。もちろん収入規制の代わりに、番組購入最低価格制度とか、フランスのようにコンテンツ産業側へ収益の一定割合を移転する制度なども産業政策上は一考の余地がある。

 文化庁もメディアの責務という点については意見がありそうだ。文化庁は一般に放送事業者の特権と呼ばれている著作権法上の特別な取り扱いを、現行の電気通信役務利用放送事業者に認めていない。他方で、文化庁の甲野正道・前著作権課長は、この条項について、これがメディア事業者としての義務と引き換えに与えられたものであると説明している(http://it.nikkei.co.jp/internet/special/jtlaw.aspx?n=MMIT26000031072007)。この二つを重ね合わせると、文化庁は、現行の電気通信役務利用放送事業者の規制では放送メディアの責務を果たしていないとみなしている、という結論が導かれるからだ。


デバイスが果たすデジタル情報環境の調整機能

 けれども、法制度論としてのメディア論をそこまで真剣に語る必要は、さしあたってはないのかもしれない。なぜなら、新法構想は、自らの規定するメディア事業規制を無視して、デジタル情報環境の中で社会が自律的にメディアを生み出していくことをも意図的に許しているようにすら見えるからだ。

 こう言える背景には、二つの理由がある。

 一つの理由は、新法構想がかなり大きく非規制部分を意図的に残していることだ。まず、そもそもメディアサービスはマルチキャスト方式によるサービスを意図しているということで、おそらく世の中の映像サービスのかなり多くの部分を占めるユニキャスト方式による個別サービスを含まないということになる。公然通信がこれを包含するかどうか現時点ではよくわからないが、仮に含まれるとしても、少なくとも先日行われた総務省担当者からの説明(http://it.nikkei.co.jp/internet/special/jtlaw.aspx?n=MMIT26000013072007)を踏まえれば、別に特別な規制がかかるわけではないようだ。新法構想公開時には、新たな事業規制が起きるのではないかという懸念も一部に示されたが、それは杞憂(きゆう)だったようである。

 もう一つの理由は、こちらの方がより重要なのだが、このデジタル情報環境の形を決めるのは、メディアサービス事業の規制ではなく、デバイスの運用方法だということだ。

 近年、デバイスの動向には刮目(かつもく)すべきものがある。ウィンドウズXPからビスタへの展開、アップルのAppleTVやiPod、iPhoneという挑戦、任天堂wiiという進化、そして日本の主要家電メーカーが共同で運営するテレビ向け情報サービスacTVila(アクトビラ)という決断、直近ではソニーの薄型テレビ「ブラビア」用ユニットBRX-NT1によるデジタル情報環境での複数の映像サービスの共通デバイス利用という提案、どれもが面白い戦略を潜ませている。これらデバイスは、一つの例外を除き、特定のサービスのクライアントとしての機能を打ち出すことで、あたかもいくつものチャンネルを持ったセットトップボックスのように振る舞うよう設計されている点は共通している。

 重要なことは、どんなメディアサービスも受けるクライアントデバイスが無ければ意味をなさないが、逆に、どんな違法で異常なメディアサービスも、デバイスがそれを受けてしまえばメディアサービスとして機能する。デバイス事業者は、チャンネル事業者といってもよい存在なのだ。

 これらを考え合わせると、新法構想がどのような形で結実するにせよ、それが市場のニーズと合わない部分があれば、そこを埋めるように新しいメディアサービスが生まれ得て、それをデバイスが公式チャンネルのように取り扱うことで、市場の力によって新たなメディアサービスが生まれうるという未来像が描ける。

 ここまで言うと、新法構想の「公然通信」の部分を指して新たな規制が始まるのではないかとまで心配した人達の中からは、新法構想はデバイス規制まで目指しているのではないかと危惧する声もでるだろう。確かに、筆者も総務省の担当官にデバイス規制までするかどうかまでは聞かなかった。しかし、それも多分、杞憂だと思う。映倫の例にならえば、社会的常識を逸するようなメディアサービスを採用することは、デバイス事業者としてもできない話で、そうした歯止めがかかることが期待できる以上、特別な法規制はさしあたって必要ないだろう。もちろん、もしそんな規制があれば筆者は真っ先に反対するが、それ以上に、そんなことをしても意味がないというのがもっと重要なところだ。なぜなら、あまたあるデバイスの中で、唯一最大の例外であるPC(もちろんMacでもLinuxでもよいのだが)が、あらゆるデバイス規制を無効化するからだ。さすがに政府でも、日本でこうした個人用汎用コンピュータを御禁制物品にするわけにはいくまい。


がんばれ、メディア産業

 こう考えると、どうもメディアサービス産業の将来は、あくまで今の構造を出発点としつつも、どんどん進化し、変わっていくものであるようだ。そして、新「情報通信法」は、直接、間接にメディアサービス事業に働く市場の圧力によって、その進化を後押ししていく可能性を秘めたものであるらしい。これは新法構想の高く評価すべき見識だろうと筆者は考える。

 コンテンツ産業のビジネスモデルは大きく広告型(アフィリエイト型を含む)と購入型に分けられるが、いずれにせよ、消費者の可処分時間と可処分所得に上限がある以上、より面白い、よりためになるコンテンツがより大きな収益を上げる。そして仲介者であるメディアサービス事業の収益も、その外枠に縛られる。メディアサービス事業はこの壁を乗り越えることはできない。結局、消費者をより満足させることでしかメディアサービス事業は発展できない。

 コンテンツとコミュニケーションとが融合していくデジタル情報空間の中で、新法構想は、最高の商品を握るメディアサービスがその真価を発揮して、協力に発展する可能性を示唆する。もちろん、そのためのビジネスモデルの開発は始まったばかりで、誰もが勝利者になる可能性もあれば、敗者になる可能性もある。しかし、そのポールポジションにいるのは、現時点で、日本で最高の商品力を持つコンテンツを生み出す事業者と最も強く結びついている特別メディアサービスを中核としたメディア産業、つまり地上波テレビ放送産業なのではないだろうか。

 繰り返すが、そのメディアサービス事業に力を与えるのはコンテンツ産業であり、それだけに、この競争においては、メディアサービス事業がコンテンツ産業をどう突き動かしていくのかが問われているといってもよい。コンテンツ産業にどう奉仕するかがメディアの責務だと述べたが、そういうとらえ方をしなくても、コンテンツ産業とのWIN?WINの関係を築けないメディアサービス事業者は、ユーザー(と、ユーザーの代理人であるチャンネルとしてのデバイス事業者)との選択により、市場での地位を落とすだけだ。新法構想は、それだけ柔軟な競争のあり方を許容している。

 誰が勝つかは神のみが知る。しかし、生来のテレビっ子としては、メディア産業の見識と奮起に期待したいと願っている。

<筆者紹介>境 真良(さかい まさよし)
早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授
1968年生まれ。高校時代はゲームデザイナー、ライターとしてコンピューター分野で活動。1993年東京大学法学部卒業。同年、通商産業省(現経済産業省)入省後、資源エネルギー庁、瀋陽総領事館大連事務所勤務後、経済産業省メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭事務局長、経済産業省商務情報政策局プラットフォーム政策室課長補佐を経て、2006年4月から現職。専門分野はコンテンツ産業理論。特にアジアにおける日本文化の波及現象については20年以上現場を追っている。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員(2006年)。
ホームページ
http://www.sakaimasayoshi.com/

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