【ネット時評 : 境 真良(経済産業省)】
情報通信法構想から始まること

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 2007年12月6日、総務省の「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」が最終報告を発表した。6月公表の中間とりまとめ案から大枠は変わっていないから、世間の反応は今ひとつ盛り上がりに欠けていたかもしれない。別の見方をするなら、2002年の産業構造審議会(産構審)など“外野”で論じられていた放送と通信の整理論が、2005年に竹中平蔵総務大臣(当時)直轄の私的懇談会「通信と放送の在り方に関する懇談会」(竹中懇)として総務省の中で論じられて以降、世の中の市民権をすでに得たということなのだろう。

 研究会がまとめた「情報通信法(仮称)」のコンセプトについては多くの方がコメントを発表しているし、自身でも論評したことがあるからここでは触れない。本稿では、筆者なりに、この情報通信法構想が提起した問題に、来年以降つながってくると予想される分野について展望してみたい。


「公然通信」がネットを守ろうとする手法

 思い返してみれば、今回の情報通信法構想について、各種メディアの反応は「ネット上の情報についても規制」というのが大半だったように思う。

 この「規制」という言葉が、新規立法によるネットメディア規制開始の意味なら、この報道は的はずれである。最終報告は情報通信法で国が直接的な内容規制をオープンメディアコンテンツ、つまりネット上のコンテンツについて規定することはすべきでないと明記している。そのかわり、研究会は総務省に、ネット上でのコンテンツが守るべき最低限の配慮事項を、刑罰を伴わない形で整備せよと言っている。これはどういうことか。

 仮に、僕が自分のホームページに「H課長は横領している」なんて書いた場合、それが当該個人に名誉毀損だと訴えられれば、まぁ敗訴は間違いない。だが、同じことを同僚に耳打ちしたくらいでは問題ない。そう、忘れがちだが私たちの言論の自由は、国家の作用の下で、その内容、書き込み(通信)の公然度によって、すでに一定の制限を受けている。名誉毀損、わいせつ物陳列などの行為の取締りや、放送事業の規制なども、すべてはその一環である。ただし、憲法は「検閲」、つまり国家が事前に表現内容を確認し、修正や公表禁止を行う制度を作ることだけは固く禁じている。逆に言えば、それ以外の秩序形成は合法である。だから映倫のような業界の自主規制や、個別判断に行政が事前に立ち入らない放送法の事業規制はとりあえず合法である。

 ただ、事後的には責任を問われうるという事実に対してですら、我々はしばしば萎縮する。関係者や警察などに事前了解をとろうとすることは多いし、そうでなければ発表を止めようとすらする。だからといって、それが「通信」であるという整理学だけを手がかりに、ネット上の全ての言論を二者間の秘密通信と同様の取り扱いにするというは、理屈が通らない。主体や方法の如何を問わず、行為者は結果責任を負うべきだからだ。

 だからこそ、ネット空間での情報発信の態様と内容と結果と責任との関係について明らかにし、そこから国民に対して、情報発信の責任を適切に回避できる方法を確保することが大事なのだと思う。情報通信法は、そのガイドラインを書き込もうということらしい。これが、すでに規定されている表現に関する規制を解釈する際の基準になれば、ネット上での表現についてはむしろ法的安定性が増す。


コンテンツの創成と消費のメカニズム

 法制度が大きく仕組みを変える時、重要なことは、国民の関連活動が無用に停滞することを防ぐことだと僕は思う。2006年春に起きた「PSE問題」(電気製品の安全性を示すPSEマークがない製品の販売を禁止したが、本格施行直前に中古品販売業者などが強く反発。一定の条件のもとマークなしでの販売を認めた)では、引き続き事業者が規制の要求を満たして中古楽器などの販売を続けられるような環境整備を怠ったことが大問題になった。

 情報通信法が放送と通信という考え方を一元化するにあたり、それが我々国民の表現活動を過度に抑制させないよう規範の明確化を図ろうというのは同じ考え方だ。それだけでなく、新情報通信法は情報の発信者と受信者が対立する「放送」と両者が対等である「通信」を重ね合わせることで、情報の「受信者」と「発信者」の相対化を加速する。そうなると次に問題になるのは、著作権の取扱を社会的にどう調整するかということである。

 情報通信法が想定する新たなメディア産業に至るには、二つの次元で変化が起きることを押さえておく必要があるだろう。第一に、コンテンツそのものは変化せず、「見方」が変わるというだけの変化(メディア変換やタイムシフト)。第二が、コンテンツそのものが改変され生々流転するようになるという変化である。これは変化というよりも、コンテンツのそもそものあり方が再び浮かび上がってきたというべきかもしれない。というのも、本来、コンテンツの創造は、創造者と利用者とが表裏一体であることから循環構造を持っていたものが、大量複製手段が生まれて産業として確立する中で、それを保護するために循環の片面である創造→消費という部分が強調されるようになったという側面があるからだ。著作権という考え方はここに生じる。しかし、新情報通信法はもう一度それを循環構造に返す効果を持つのだ。

 新情報通信法が単に古い意味でのメディア事業再編にすぎないのであれば、問題は第一の変化の議論で尽きる。事業者間で自由に利用ができる権利のパッケージ化と利用条件の明定さえしておけばよい道理だ。僕はかつてここを重視してコンテンツ流通促進法制を唱えたが、新情報通信法が第二の変化まで議論を拡大した以上、すでに話はここでは済まなくなっている。既存コンテンツの改変による創作(二次創作と総称する)を含めたコンテンツ創作活動促進政策とでもいうべきものを考える段階に来ているということだ。

 ただ、二次創作の円滑化という問題を第三者の視点からひとくくりに取り扱うのはなかなか難しい。長くなるので僕の結論だけを簡単に言えば、確保したいことは他者のコンテンツを改変複製して新しいコンテンツを作ること、そして、小規模であれば第三者に利用させることを可能とすることである。クリエイティブ・コモンズやBSDライセンスのようにすべて利用を開放することも可能ではあろうが、僕は公的制度としては極端かと思う。大規模利用については、元コンテンツと新コンテンツの権利者同士で合意を形成すべきで、その際、商品化の場合のライセンス料といわれる全体の3~10%程度を基準にできれば、合意はよりスムースにできると思う。もちろん、利用の全てを広くパブリックに開放するという豪気なクリエイターは賞賛する。


次世代コンテンツ規範の構造

 著作権法の専門家は、ややもすると、業界の慣行に対して「著作権法と異なる」と指摘することがあるという。これは先日、保護期間延長問題などで活躍中の福井健策弁護士から聞いた話だが、産業政策の立場からすれば、現実が法律通りに構成されていないことなど当たり前で、法律はルールの源泉の一つだが、業界の慣行というのも現実のルールの重要な源泉である。著作権の場合、権利法である著作権法の上にギョーカイの「常識」や慣習、業界団体間合意を積み重ねて二階建てになっている。その上に個別契約を重ねて、あるコンテンツに関する具体的な取扱方法が決まるのである。

 次世代コンテンツ規範の構造もこれを引き継ぎ、著作権法にのみ頼らない、多元的な規範になるだろう。だとすれば、二次創作の条件なんていうものは学者や政治家、役人などが口出しすべきでない、ギョーカイ内の問題だという言葉も聞こえそうだ。しかし、本当にそうだろうか。

 そもそも、「常識」というものほど扱いにくいものはない。2007年末にネット関連のニュースメディアを騒がせた「初音ミク騒動」。声優の声をベースにした音声合成ソフト「初音ミク」を用いて作成された楽曲の「着うた」配信をめぐり、その著作権管理についてソフトの企画・販売元であるクリプトン・フューチャー・メディアと、「着うた」配信を手がけるドワンゴ・ミュージックパブリッシングの見解が対立していた。最終的に両者は和解したものの、その原因の一端は、クリプトンが吐露したように、ギョーカイの常識と一般の常識とのズレにあったようだ。掲示板サイト「2ちゃんねる」に出没していたアスキーアートのキャラクターを、企業がビジネス利用を目的に商標登録に走ったために起きた「ギコネコ事件」や「のまネコ事件」は、メディア企業の常識と2ちゃんねる関係者の常識のズレが生んだ問題とも言えよう。その調整が、対立する一方の当事者であるギョーカイに委ねられているというのはいかにもバランスが悪い。反対当事者とレフェリーを加え、オープンに論じることが必要だ。

 今後の展開を予測するなら、そこから生まれる規範は、公開の態様や二次創作の形態によって変わるだろう。かつて、講談社少年マガジン編集部はコミックマーケット(マンガ同人誌の展示即売会、コミケ)で配布された小冊子に、自社作品の二次創作物の無許諾公開を事実上公認する宣言を寄せた。しかしそこには、流通量や著者へのリスペクトなど一定条件がついている。無条件の利用公開というのは想像しがたい。

 余談ながら、この宣言は条件付きでも大歓迎なのだけれど、それが出版社というメディア事業者による宣言であるところに僕は少しひっかかっている。最近、メディア事業者による権利開放への提言をよく耳にするが、こうしたポリシーは、きちんと創造部分を担うコンテンツ事業者の納得を得ておくべきであるということは、指摘しておきたい。

 だから、次世代コンテンツ規範を構築するのであれば、ギョーカイと出資者や利用者の調整という次元、ギョーカイ内部の各レイヤー相互の調整という次元、この両方を睨みつつ、オープンで広範囲な議論を踏まえて行わなければならない。国の立法プロセスはこの意味で一応合格である(はずだ)。しかし、だからといって次世代コンテンツ規範を国家が法定しろといっているわけではない。ただ、ギョーカイが開放系に変わっていくプロセスの中では、これまでのギョーカイ内部の、とりわけ有力企業同士が密室の合意に基づき有無を言わせず規範を定立していくというあり方は不適切だといいたいのだ。


情報社会の多様性を維持していくために

 創造者を突き動かすのは、何よりコミュニケーションする喜びである。デジタルメディア研究所の橘川幸夫氏は、完全投稿雑誌を発行した経験からそう見通した。パソコンによるコンテンツ創造、流通、消費のデジタル化、そしてインターネットという情報インフラの出現は、コンテンツを巡る環境を激変させた。メディア事業者や、それに支えられた職業創作者の独占的な地位を揺るがせた反面、ブログやHP、2ちゃんねるの書き込みに至るまで、まさにコミュニケーション欲求に突き動かされた国民総出の創作活動が行われてきた。

 このインターネットの自由度を、可能な限り、表現の規制や産業メカニズムと調和させるという大作業が、情報通信法から始まる。結果として、インターネット上に様々な公開度のコミュニケーションチャンネルが形成され、私たちが表現したい内容に応じてごく自然にチャンネルを選んで情報発信できるような環境ができれば、なによりである。消費者=創造者が最小限のストレスで、ごく自然に守れるようなルールの形成と環境の整備が最良の途であると僕は考える。

 その点で国はもう少し積極的なアクションを起こしてよいのかもしれない。
 例えば、単にネット上のコンテンツと公開度の関係を明らかにするだけでなく、もう一歩踏み込んで、様々な公開度のプラットフォームがネット上に存在するように産業界を側面から支えることも重要だろう。

 また、次世代コンテンツ規範も単に利用の是非を規範化するだけでなく、課金・配分システムを含めることで、許諾処理なしに、自然とコンテンツが収入を発生させ、また消費者は意識することなくコンテンツ使用料を支払えるような仕組みを構築することも視野に入れられないだろうか。これは今現在進んでいるサービスやサイト毎に権利管理団体が個別に合意を形成している段階の向こうにあるものだが、この経験を汲み上げてインターネット全体で集中課金・配分システムを作るためには、国の力が助けになるかもしれない。やや誇大妄想的だが、日本が中心になってインターネット上でコンテンツ利用料の集金と配分ができるシステムをワールドワイドに構築するというのは、実に楽しいシナリオである。

 オープンな環境の中で、基礎的なルールを作っていくこと。それは言うほど簡単なことではない。最初から設計図通りにものごとを運ぶなど、無理なことだ。しかし、無様でも、社会システムを進化させる一歩は踏み出さねばならない。情報通信法という右足は踏み出される。今度は、そこから左足を踏み出し、歩き始める時ではないだろうか。

<筆者紹介>境 真良(さかい まさよし)
早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授
1968年生まれ。高校時代はゲームデザイナー、ライターとしてコンピューター分野で活動。1993年東京大学法学部卒業。同年、通商産業省(現経済産業省)入省後、資源エネルギー庁、瀋陽総領事館大連事務所勤務後、経済産業省メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭事務局長、経済産業省商務情報政策局プラットフォーム政策室課長補佐を経て、2006年4月から現職。専門分野はコンテンツ産業理論。特にアジアにおける日本文化の波及現象については20年以上現場を追っている。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員(2006年)。
ホームページ
http://www.sakaimasayoshi.com/

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