【ネット時評 : 國領二郎(慶應大学)】
「自律する人間」と「依存する人間」

kokuryo3.jpg
 
 2008年がスタートした1月1日。お正月ということもあり、目先の出来事からしばし目を離して世の中全体のことを振り返ってみた。


当たった予想、外した予想
 
 インターネットの商業利用が開始されて15年ほどたって、当初予想していたどおりのことも起こったし、そうでもないこともあった。予想した通りになったのはインターネットが大化けするということだが、そんな今となっては当たり前のことに満足しているよりも、外した予想の中に真実が隠れているように思う。

 たとえば、ネット取引は筆者が思ったほどグローバル化しなかった。ウィンドウズ95が出てブラウザが一般的になり、アマゾンやeBayが出てきてネットショッピングが現実のものとして現れてきた時には、この道具を使って日常的にものやデジタルコンテンツを海外から取り寄せる日が来ると思った。ところがそうはなっていない。筆者に身近な書籍で考えてみると、確かにアマゾンを使って洋書を買う頻度は10年前に丸善で洋書を買う頻度より高くなったが、その間に和書をアマゾンで買う回数も大幅に増加したので、相対的に、それほど増えたようにも思えない。それに海外在庫の洋書を買うことが、昔と比べて増えたとは思えず、大半が国内在庫している洋書を買っているだけだ。中古本に至っては、この10年間で海外から買ったのは2回だけで、売った回数はゼロだ。

 ブランドという意味でも国際化はいまいちだ。もっとグローバル化すると思っていた。パソコンなどの道具の世界で、マイクロソフトやアップルが世界中を席巻したように、ネットサービスも同一ブランドが世界を席巻すると思った。ネットスケープのブラウザがあっという間に世界中に広がった時にはそれを確信したと告白しておこう。ところが10年あまりたった今、私自身のことを考えてみても、頻繁に使っている海外ブランドはグーグルとアマゾンくらいで、後はホテル予約も、株取引も、衣料や電気製品のショッピングも全て国内ブランドのサイトでやっている。海外旅行のチケットもルートを調べる時はアメリカのサイトを使うが、実際には買えないので、購入はしない。
 
 他にも予想を外したと思っていることがある。たとえば、商品情報開示に対する消費者の反応がにぶい。筆者の研究室メンバーである小川美香子が食品トレーサビリティーの研究をしているので、付き合って勉強しているのだが、これだけ食品安全のことが騒がれているにも関わらず、消費者は安全(正確な情報)を知りたいというよりも、やみくもに頼れるブランド(安心)を求めているとしか思えないと感じることがある。コストをかけて消費者向けに情報を開示しても、直接的に関心をもってそれを見ている消費者というのは限定的だ。

 もっとも情報開示には消費者が見ているか否かとは別に、社会的な公開、つまりプロの目やマスコミの目を意識したり、社内の他部門の目がチェックしてくれたりする状況を生むことで、社内に緊張感を生む効果がある。だから開示の意味はあいかわらず大きいと考えているのだが、少なくとも消費者は「開示をする姿勢を見せる企業」のことは評価しても、開示された情報に自ら関心をもって確認することは、あまりないようだ(例外としてアレルギー情報があることは付記しておきたい)。


予想を外した、本当の理由
 
 どこで予想を外したのだろうか?いくつかの仮説がありうるような気がする。

 第一は単純に、1978年にノーベル経済学賞を受賞した米国のハーバート・サイモンが何十年も前に「認知限界」と指摘した、個人の情報処理能力の限界を原因とする見方だ。つまり、人間は基本には自律的に判断するものではあるのだが、認知限界(情報過多に対応しきれない)があるので、一部の判断を外に託す、という考え方だ。たとえば、個人消費者がネットで海外品を買うにあたって、手順もよく分からず、よく意味の分からないただし書きがいろいろ書いてある海外のサイトから物を購入する不安感は大きいし、取引条件や明細の確認作業の手間は大きい。なので、直接海外から買ったほうが安いと思われるものでも、日ごろ使い慣れている国内事業者を通して買う傾向が出てくる。似たことが食品の情報開示についても言える。自分で全ての情報を精査している時間がない消費者は、有名な加工食品のブランドなどに、日ごろは情報処理を委ねているという考え方になる。この説が正しくて認知限界がネックだとすると、それは、あらかじめ予想されたことでもあるし、その解消は時間の問題で、国際化の面では業者側の国際的な配送体制の整備や、情報開示では消費者代理で開示された情報を分かりやすく処理してくれるサービス(評価サイトなど)が発達してくれば、次第に状況が変化してくるものと思われる。
 
 本稿で問題にしたいのは、似ているようで異なる第二の仮説だ。これは、我々がインターネット普及を唱えていたころに主張してきた「自律・分散・協調モデル」、すなわち、人間が基本的には独立した人格を持っていて、自ら判断しながら他者と協調していく、という人間観がそもそも間違っていた、と考える。人間は本質的に他者に依存したがり、判断も責任も委ねたがる傾向があることをネットが証明しつつある、という見方である。表面的には認知限界仮説に近い「委ねる」現象なのだが、認知限界仮説では基本的に自律する個人を考えているのに対して、こちらでは人間が本質のところで判断を人に委ねたい、他者に依存したい、何か悪いことが起こった時には人のせいにしたい生き物だ、と見る人間観であるところが違う。ネット上で口コミなどが広がるパターンを見ていると、いかに人間には自信がなく、他者の意見に影響されるかを改めて実感させられるし、選挙時に地滑り現象が起こりやすくなっている様子を見るにつけ、ネット社会が情報共有を進めてより理性的な判断を促進する効果よりは、感情的なうねりの大きい、扇動に弱い構造を作っていると考えた方が妥当であるようにも見える。


二つの人間観の間に

 「自律する人間観」と「依存する人間観」の違いは、恐らく通信放送融合などの議論にも影響する話なのだろうと思う。テレビは「依存する人間」に心地よい指示を与えてくれるものだし、依存の可能性を踏まえ、危険なことが起きないように(機能が十全であるか否かは別として)ジャーナリズムの原則など、一定の基準をもって運用されてきているメディアだといえる。これに対してネットメディアの方は、基本的に自律する個人が、自己責任のもとに協調するモデルを前提としている。この二つが簡単に融合するとは思えないので、もし、「依存する」のが人間の本質だとすると、インフラストラクチャレベルで通信と放送が融合したとしても、テレビ型のメディアについては暴走させないような、何らかの社会的な制御機能を持たせる必要があるということになるのだろう。

 最後はやはり目先の議論になってしまったが、目先の議論も本質をしっかり踏まえて行いたい。「自律する人間」と「依存する人間」はいずれか一方が正しい人間観であるというよりも、恐らくその両方が共存しているのが現実の人間だということになるのだろう。自信がある時には自分で判断したいと思うし、自信がない時には人に頼りたがるのが人間だというのは、難しいネットの議論に持ち込まずとも、ごく当たり前なのかもしれない。制度やメディアを設計するにあたって、どちらか一方の人間観だけを想定するのではなく、二つの間で揺れる人間を想定しておいた方がいい、ということになるのだろう。

<筆者紹介>國領 二郎(こくりょう じろう)
慶應義塾大学 総合政策学部教授
1982年 東京大学経済学部経営学科卒業、日本電信電話公社入社。86年 ハーバード・ビジネススクールに留学。経営全般を学ぶ。88年 経営学修士号を取得、ハーバード・ビジネススクール研究員。89年 ハーバード・ビジネススクール博士課程入学、経営情報学(MIS)グループに所属。92年 ハーバード大学経営学博士、NTT企業通信システム本部勤務。93年慶應義塾大学大学院経営管理研究科助教授。2000年同教授。2003年同環境情報学部教授、2006年より同総合政策学部教授。また2005年よりSFC研究所長も務める。近著に『オープン・ソリューション社会の構想』 (2004、日本経済新聞社)ほか。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL
http://www.nikkeidigitalcore.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/231

コメント一覧

メニュー