【ネット時評 : 境 真良(経済産業省)】
著作権の呪縛をそろそろ越えないか?

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 デジタル環境とメディア・コンテンツ産業の確執は尽きない。ダビング10は一度は延期されたが、その危機を越えてようやく実施にこぎ着けた。まずはめでたい(だって、コピーワンスよりましでしょ?)。関係者の努力を讃えたい。
 

「ダビング10」に私的録音録画補償金のことを考え直す

 ただ、ダビング10問題の中で、またもや私的録音録画補償金とは何かを考えさせられてしまった。

 正直に言えば、私は私的録音録画補償金に大きな違和感を感じている。その違和感の根源は、自分が合法的に入手したコンテンツを、自分の利用のために複製するだけでも追加的支払いが発生する、というところにある。

 そもそも私たちがパッケージメディアなどでコンテンツを買って楽しむということには、二つの微妙に違った法的解釈がありうる。一つは私たちはメディアという物体を購入し、それを事実として使っているということ。もう一つは、メディアを購入することでコンテンツを私用する資格を獲得するのであり、メディアはその手段にすぎないということ。前者をメディア中心主義、後者を利用権主義と、とりあえず呼ぶことにしよう。

 比べてみれば、利用権主義の方が私たちの日常感覚により合っているのではないか、と私は考える。コンテンツがパッケージメディアから独立した情報の固まりとして扱えるようになってからは特にそうで、無くした時のためにデータのバックアップを一つとっておく、ということはごく当たり前の日常的行為になっている。

 しかし、著作権の中に「複製権」を規定し、コンテンツの複製物の勝手な作成を禁ずる著作権法は、原則としてメディア中心主義をとっていると考えられる。私的録音録画補償金という考え方も、この延長にあるものだ。


複製権という制度の長所と短所

 問題は、この「複製権」に集約されている。立法者は、これは他者に反復的に利用されることを著作権者にコントロールさせるための規定で、メディアを他者に販売することを規制するなどの方法をとらず、この複製権を活用する考え方をとったと説明する(加戸守行著「著作権法逐条講義」)。ところがこの説明は、著作権法がメディア中心主義の規定をおいた理由は、逆に利用権主義の考え方を徹底するためであったことを明らかにしている(だから私的複製という例外があるのだが)。著作権法の真意は、利用権主義にあるのだ。

 考えてみれば、著作権法が生まれたころ、コピー機やテープレコーダー、CD-Rやスキャナーといった複製手段は利用者の手にはなかった。そこで、複製物の数が利用者の数と原則として一致していた。だから複製される回数が利用者の数、すなわちそのコンテンツが世の中に生み出した価値の量だとして、それを基礎としてコンテンツ製作者への報酬を計算することは、それなりに合理的だった。

 また、「複製を許諾する権利」という法律構成もなかなか含蓄がある。まず、「許諾する権利」であるからこそ、交渉を通じてコンテンツ一つ一つに適正な対価を決定することができる。もちろん、だからこそ「お目こぼし」もできる。それどころか、それが裸の「権利」であるために、許諾を求める相手方に金銭以外の様々なことを要求出来るという柔軟性が生まれた。これが「複製からお金をもらえる権利(又は、お金が自動的に入ってくるという立場)」なら、こうはいかない。

 ところが、まず複製数と利用者数の対応関係は、複製手段が利用者の手に入った段階で揺らぎ、インターネットの出現にいたっては全く崩壊してしまった。インターネット上でのコンテンツの流通とは複製の連鎖に他ならず、コンテンツが移動するたびに、利用されない複製物(抜け殻とも、カスともいうべきもの)がインターネット(正確には、サーバー)の上に山ほど生まれるようになってしまった。

 もちろんインターネット上には利用権主義から見ても否定すべき無断複製物も数多く存在する。しかし、利用権主義からは問題がない複製物も多くあり、そのうちのけっこうな部分は著作権法そのものによって合法と認められている。ただ、単に無断複製物という限り、これらは混在しており、それを全て把握し、一つ一つの意味を峻別して法的措置に訴えることのコストは膨大で、これが複製権のコストパフォーマンスを悪化させてしまった。だが、事業者はそのコストを甘んじて受けなければならない。それが許諾権である複製権の、当然の論理的帰結である。

 ネット空間だけを見る限り、複製権はすでに産業界にとって重荷でしかない。


著作権的思想でゆがんでしまった「ネット権」

 思うに、複製権をダメにしてしまった理由は、こうしてコンテンツを利用する私たちの日常的な環境や感覚と法制度の前提の間の乖離(かいり)が拡大したことにある。だとすれば、それを縮小するような手だてを考えればよい。それが、現実と著作権法のズレを吸収すべく、著作権法の上により合理的なルールを作ろうという提案(通称「二階建て」)が生まれた思想背景だろう。この立場は、様々な実務家、研究者、事業者に支持を拡大してきた。

 ところがこの二階建てによる提案そのものに、知らず知らずのうちに、著作権法の考え方が逆流してしまうことがある。その典型例が、最近話題になった「ネット権」である。

 「デジタル・コンテンツ法有識者フォーラム」(代表:八田達夫政策研究大学院大学学長)が提案する「ネット権」の提案は、音楽の原盤権者や映画の製作者、テレビ局などにコンテンツのネット上での利用を許諾する独占権を認めることを基本設計としている。そして、このネット権者はその利用収益を公正に著作権者に還元する義務を負い、またそれゆえ、それができると見なされた者だけにこのネット権を付与しようという考えである。

 ネット空間でのコンテンツ流通を促進したい気持ちは分かるが、これは問題が多い。いくつかある二階建て型の提案の中でも「許諾権」の構成をとったのは「ネット権」の特徴だが、これでは「複製権」と同じ発動コストの問題を抱えてしまい、せっかく新法を作ってもその効果は限定的だ。

 それどころか、業界内で権利者同士が配分を論じあえるという著作権法が持っていた長所まで「ネット権」はゆがめてしまう。CDやテレビ放送、映画上映といったビジネスのメディア事業者に、そうした事業と抱き合わせ販売でネットでの利用権を独占的に認めるという構成は、メディア事業者とコンテンツ事業者の立場もゆがめる。これでは「公正な配分」が両者の自由な交渉によって決まるとはとうてい言えまい。この点に気がついているのか、提案では将来的にいくつかの団体とルール作りをすべきことを付言しているが、第三者も巻き込んだ配分水準の決定は「ネット権」創設の前提条件であり、権利創設後にゆっくりやればよいことではない。同様に、ネットのメディア事業者とそれ以外のメディア事業者の立場をゆがめることも問題であろう。おまけにネット権の付与対象は、国から特別に認められた一部の事業者になるという。これでは「コンテンツのネット流通促進法」ではなく、は「特定従来型メディア事業者支援法」である(この点では、伝統的ジャーナリズム論の視点からも反発が出そうだ)。

 もちろん、ネット権の提案にも見るべきものは多い。特にフェア・ユースの導入で一般消費者による二次創作、利用へコンテンツを開放すること、著作者人格権の効力について調整を加えることなどは全く賛成だ。それだけに、こうした「許諾権」というアナクロな発想に引きずられてしまったことが残念である。


権利の配分から資金の再配分システムへ

 知的財産とコンテンツ産業が同時に注目されてしまったおかげで、どうも「権利」という考え方があまりにも自然に一人歩きしてしまったようだ。だいたい、デジタル技術によってコンテンツとメディアの関係が分離してしまった現在、メディアごとに(特にネット空間に)許諾権を行使してマルチ・ウィンドウ戦略を続けようという考え方そのものがそもそも間違いである。そんな「許諾権」を手にしても、得られるものは業界内で切った張ったの交渉をするという楽しみ以上のものではない。そこからボロボロとこぼれ落ち、逸失する価値を回収することは、「許諾権」では難しい。

 コンテンツ産業の制度的目標は、なるべく消費者や関連事業者にストレスをかけない方法で、一つ一つのコンテンツ(正確にはその生産者)に対してその利用から生じる利益を公正に還元していくこと、それだけである。よく考えてみれば、著作権法はそれを構築するための材料の一つに過ぎない。著作権法と矛盾しない限り如何なる制度設計も可能だし、矛盾するならそれを解消する方法を講ずればよい(二階建てという提案はだからこそ生まれた)。事実、フランスに見られるコンテンツ産業間の収益調整システムは著作権法とは関係がない次元で構築されており、だからこそ著作権法と矛盾するとは考えられていない。

 おそらく、ネット権が目指した、そして他の二階建て法制の提案にも共通の目標は、「権利法」的スキームではなく、産業間の所得移転制度によって解決されるべきなのだ。それは合理的な説明ができるのであれば、著作権法とは全く関係がない制度でかまわない。著作権者には、そこから受益する可能性と引き替えに著作権の一部を行使しないと自発的に約束してもらえば、著作権法との矛盾も解決できる。

 大事なことは「権利」そのものではなく、そこから得られる「利益」であり、産業理論の立場で見れば、それは「お金」である。私たちは、そんな著作権的思考形態の呪縛(じゅばく)を振り解き、ただ純粋に、コンテンツの創造を通じて受益する産業から裨益する産業へと適切な量の資金の流れを作り、それを一つ一つのコンテンツに公正に還元していく方法や仕組みを論ずる段階に入っているのではないだろうか。

<筆者紹介>境 真良(さかい まさよし)
早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授
1968年生まれ。高校時代はゲームデザイナー、ライターとしてコンピューター分野で活動。1993年東京大学法学部卒業。同年、通商産業省(現経済産業省)入省後、資源エネルギー庁、瀋陽総領事館大連事務所勤務後、経済産業省メディアコンテンツ課課長補佐、東京国際映画祭事務局長、経済産業省商務情報政策局プラットフォーム政策室課長補佐を経て、2006年4月から現職。専門分野はコンテンツ産業理論。特にアジアにおける日本文化の波及現象については20年以上現場を追っている。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員(2006年)。
ホームページ
http://www.sakaimasayoshi.com/

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