【ネット時評 : 谷脇康彦(総務省)】
スマート・ユビキタスネット社会の実現へ――ICT政策の現場から(上)

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 昨年秋の金融危機に端を発する「百年に一度」と呼ばれる世界同時不況。外需主導の日本経済は、先進諸国の中でも特に大きな打撃を受けた。日本がこの経済不況からいち早く脱却するとともに、中長期の持続的成長を実現するためには何をなすべきか。カギを握っているのはICT(情報通信技術)だ。ICTをわが国がどう位置づけ、活用していくのか。2回にわたり、総務省や霞が関全体で進む議論を紹介しながら考えてみたい。(文中に述べた意見は筆者の個人的見解です)
 

日本はICT先進国か?

 今年3月、「ダボス会議」で知られる世界経済フォーラム(WEF)はICT分野の国際競争力ランキング(The Global Information Technoloogy Report 2008-2009)を公表した。

 これによると、日本の順位は世界17位と大きく立ち遅れている。ブロードバンド大国日本がここまで下位に止まっている原因は何だろうか。それはICT「利活用」の遅れにある。項目別のランキングで見ると学校でのインターネット接続は25位、オンライン行政の普及は51位。ブロードバンド料金では1位となっているのと対照的だ。

 ランキングの1位はデンマーク、2位はスウェーデン。両国とも、電子政府の推進などの項目で順位を上げた。レポートは「ICTの普及と深化を競争力の原動力として国家の重要課題に位置付けている」と両国を高く評価している。


ICTは国家の戦略分野に

 ICT産業の発展は国の経済成長に大きな効果を持つ。日本の場合、名目国内生産額に占めるICT産業の比率は約1割(97.9兆円、2007年)。直近5年間(2003~2007年)の実質GDP成長率に対するICT産業の平均寄与率は34%。経済成長の約3分の1はICT産業がけん引している。ICT産業は経済全体の成長を促す「触媒」だ。

 今、先進諸国ではICT産業を景気浮揚に向けた戦略分野と位置づけ、積極的にテコ入れを図っている。まずはICT分野に力を入れる米国オバマ大統領。本年2月、「米国再生・再投資法」が成立した。総額7千8百憶ドル(約74兆円)にのぼる景気刺激策の中で、ブロードバンドインフラの整備に72億ドル(約6千8百億円)を投入する他、FCC(連邦通信委員会)は来年2月までに全米のブロードバンド整備計画を作成すべく検討に着手している。

 欧州に目を転じると、金融立国である英国は、今回の経済危機が直撃した国の一つ。「現在の金融・経済危機に対し、英国が最悪期を切り抜け、上方修正に備えるため、デジタル・エコノミーはその中心に位置するものだ」(ピーター・マンデルソン ビジネス・企業・規制改革大臣)と明確に位置づけ、本年6月にはICT分野の行動計画「デジタル・ブリテン」の最終報告書を公表。2012年までにすべての国民がブロードバンドサービスを利用できるよう基盤整備を図る公的基金の創設などを盛り込んだ「デジタル経済法案」を近く議会に提出する。
 
 フランスでは、昨年10月「デジタル・フランス2012」を発表。これを踏まえ、本年5月、コシュスコ・モリゼ デジタル経済担当大臣が、すべての国民が2010年までに固定ブロードバンドに、2012年までにモバイルブロードバンドにアクセス可能とする「デジタル景気刺激プラン」を発表している。

 このように、主要先進国はICTを経済再生の切り札に位置づけ、取り組みを始めている。しかし、その中心はブロードバンド基盤の整備だ。一方でわが国はと言えば、ブロードバンド整備率はすでに全国で98.6%(08年9月末)に達している。ブロードバンド加入契約者数も3千万を越えた。基盤整備の面では世界を一歩リードしているのだ。この基盤を最大限に活用し、ICT利活用を促進する取り組みを加速化していくことこそが、経済再生に向けた日本の重要な政策課題である。


スマート・ユビキタスネット社会

 6月5日、総務省はICTビジョン懇談会(総務大臣主催の懇談会)の報告書を発表した。そのタイトルは「スマート・ユビキタスネット社会実現戦略」。スマートなユビキタスネット社会とは何を意味しているのか。

 ICTの利活用促進の重要性は、何年も前から指摘されてきた。例えば2003年に政府決定した「e-Japan戦略Ⅱ」。医療、教育、行政サービスなど7分野を「先導分野」と位置づけ、ICT利活用を促進することに力点が置かれた。しかし、現時点において電子政府で国民が便利さを実感できることはなく、医療や教育分野でのICTの利活用も遅々として進んでいない。

 従来、ともするとICT分野の政策は「供給者の目線」で策定されてきた面が強い。「こんなに便利になる」、「そんなことも簡単にできる」という新技術の成果も、「利用者の目線」からみると、誰にとっても「便利」で「簡単」なものではなかった。こうした状況から脱却し、ICTが水や空気のように国民一人ひとりを優しく包み込む、利用者本位(user centric)の、より進化したユビキタスネット社会、これがスマート・ユビキタスネット社会の目指す世界だ。


国民電子私書箱構想とクラウド

 ICTの利活用を加速していくためには、まず政府自らが「利用者が便利さを実感できる電子政府」を、今度こそ確実に実現すべきだ。そこで出てくるのが国民電子私書箱構想。これは、国民一人ひとりが希望に応じて専用のアカウントを持ち、ここでワンストップの行政サービスを受けられるようにしようというもの。パソコンを利用できない高齢者なども、アカウントに本人に関係する行政サービス情報を統合化することで、役場にICカードを持参すれば一つの窓口で手続きを完了させることが可能になる。

 例えば、引っ越しの際に住民が必要な手続きは、最大26件もある。7つの公共機関を訪問し、13種類の添付書類を提出しなくてはならない。こうした手続きがワンクリックで完了すれば、年間1千億円のコスト削減効果がある。

 諸外国では、すでにかなり進んだ電子行政サービスが実現している。韓国では自宅のプリンターで印刷可能な公的証明書が27種類あり、将来70種類まで拡大する計画だ。スウェーデンでは「プッシュ型」の電子納税が実現している。国税庁が保有する個人情報から所得申告書のひな形を作成して納税者に郵送し、納税者は特段大きな修正点がない場合は、インターネットで追加申告を行えば手続きは完了する、というものだ。英国では引っ越しワンストップサービス“I am moving. org”が稼働している。政府機関はもとより、電気・ガス・水道・銀行などの各種公的サービスの住所変更を一括で行うことができ、年間引っ越し約400万件のうち5~10%がこのサービスを利用しているという。

 こうしたワンストップ行政サービスを日本でも実現しようというのが「国民電子私書箱構想」だ。2013年度までの構築に向け、今年度中に政府として基本構想を固めることとしている。その際、国民IDの管理のあり方が実現に向けたポイントとなる。個人情報保護に考慮しつつ、各行政機関のシステムと住基ネットのコードを相互参照し、あくまで利用者の個別承諾を前提として、両者を結びつけるような仕組みの構築が求められる。

 また、国民電子私書箱によるワンストップ行政サービスを実現するには、行政機関が保有している情報連携を可能とする仕組みが必要になる。現在、各府省はそれぞれの行政事務ごとにシステムを構築しているが、クラウド技術を使って政府全体のシステムの統合的な運用を可能とする「霞が関クラウド」を2015年度までに実現する。あわせて、地方自治体においても「自治体クラウド」の構築に着手する。言うまでもなく、行政情報の漏えいはあってはならない。このため、総務省では今年度からセキュア・クラウドネットワーキング技術の研究開発など関連技術の研究開発にも着手している。

 現在、電子政府の構築・運営のための予算は約6千億円。「霞が関クラウド」の構築によって、約3割のコスト削減も可能と考えられている。電子政府の構築は行財政改革と表裏一体であり、新たに政府全体のCIOを任命し、強力な権限を付与しつつ、各府省の抵抗を排して電子政府の構築と行政のBPR(Business Process Reengineering)を同時に推進する必要がある。

 クラウドサービスは現在各分野で急速に普及しているが、検討すべき課題も多い。そこで、総務省では7月から「スマート・クラウド研究会」を開催する。この研究会では、クラウドサービスの様々な分野での利用可能性、次世代クラウド技術の開発の方向性、クラウドサービス間の共通基盤(API)の確立、国際的なルール整備の必要性、人材育成のあり方などを検討し、包括的なクラウド政策の展開に向けたロードマップを描く。年内を目途に中間報告を取りまとめる。


動き出したユビキタスタウン構想

 ICTの利活用を推進するための実証実験プロジェクトは、これまでも全国で展開されてきた。しかし、こうした試みは「点」の取り組みであって、「面」展開が実現していないのが実態である。そこで、ユビキタスタウン構想という新しい事業が開始されており、6月末から申請を受け付けている(7月29日締め切り)。

 これは、遠隔医療、遠隔教育、児童・老人見守りシステム、農業の遠隔監視など、ユビキタス技術を地域コミュニティーに集中的に投入して安心・安全な街づくりを実現しようというものだ。その最大の特徴は、全国各地でユビキタス技術投入プロジェクトが同時に多数立ち上がること。こうした「横展開」の取組を通じて、ベストプラクティスや技術的課題を共有しつつ、全国レベルでICTを積極活用した街づくりを進める。同時に、こうした取り組みを進める地方自治体で構成する「ユビキタスタウン構想推進会議」の開催も予定している。

 ただし、こうした取り組みを進めていく上で課題になるのは、ICTの利活用を想定していない規制や慣行である。例えば、遠隔医療が進まない要因の一つは、医師法で対面診療が原則とされていることにある。テレワークも同様で、労働時間管理のあり方や労働災害の適用関係などが明確でないことから、取り組みが前に進まない。このため、今後、IT戦略本部の下に専門調査会を設け、2009年中にICTの利活用を阻む制度などの見直しに向けた重点点検を行うこととしている。


新コンテンツ産業の育成

 ICTの利活用を進めていく上では、コンテンツ産業の市場領域を拡大していく取組みも必要だ。例えば、本年5月、フランス政府はシリアス・ゲーミング(教育や研修を目的とするビデオゲーム)に2千万ユーロ(約27億円)を投入すると発表した。このように、従来よりも幅広くコンテンツをとらえ、産業として育成していく必要がある。

 そこで、エンターテインメント系以外の産業、教育、行政などの活動で生み出される膨大な知識・情報を「新コンテンツ」と位置付け、配信プラットフォームの構築や新しいビジネスモデルの創出を目指す「コンテンツ・プラットフォーム特区(仮称)」を創設するほか、新コンテンツ産業の育成に向けた政策パッケージを検討する「コンテンツ産業将来像検討会議(仮称)」を開催することにしている。

 また、2009年秋をめどに、携帯サイトの属性別のアクセス状況を数値化する「モバイルネット視聴率」、多様な経路でコンテンツ配信ができるようインタフェースを共通化した「次世代デジタルサイネージ」、ネットワークに依存しないオープン型の「認証基盤連携」など、コンテンツ流通を促進させる様々な実証実験を開始する。そして、これらの取組みにより、メディアソフト市場約11.4兆円(2006年)を2015年時点で5兆円程度拡大させることを目指す、としている。


ICTグリーンプロジェクト

 ICTはあらゆる産業の効率化や付加価値の向上をもたらすとともに、環境負荷の低減に大きな効果を持つ。ICT産業そのもののグリーン化を進めるためには「グリーンクラウドデータセンター」の構築が課題の一つだ。大量の電力を消費するデータセンターでの太陽光、風力、雪といった自然エネルギーの活用、地下空間へのデータセンター設置、直流電源を利用したデータセンターなどを実現するための課題解決を急ぐ必要がある。また、光信号を電気信号に変換することなく、すべて光信号で伝送するオール光通信技術や、経路制御によってルーターの稼働を最小限にとどめるエコ・インターネットの開発と組み合わせれば、グリーンな情報通信基盤が実現する。

 また、ICTは物流・交通流・電力流・金融流・情報流などを統合化し、社会インフラの効率性を向上させる。今後普及が見込まれる電気自動車への給電施設と高度道路交通システム(ITS)の統合運用、家庭の電力メーターに通信機能を持たせた「スマートメーター」の導入やグリッド技術を活用した電力融通の最適化など、ICTを活用したグリーンな街づくりを目指す必要がある。さらに、IPv6ベースのオープンセンサーネットワークによるCO2排出量の管理、ネットワークロボットを使った海洋・宇宙資源開発なども具体化を急ぐことが求められよう。

 こうしたICTグリーンプロジェクトで日本の強みを持った技術を育成し、アジアをはじめとするグローバル市場に展開し、日本のICT産業の活性化につなげていくことも期待される。


ガラパゴスを脱しグローバル戦略を

 我が国の総人口は04年12月をピークに減少に転じている。2055年ごろには総人口が9千万人を割り込むとも予想される。そうなると我が国のGDPの約55%を占めている個人消費市場も大幅に減少する。縮小する内需を外需で補うためには、ICT産業のグローバル展開が国として不可避だ。

 ICTビジョン懇談会の報告書を受け、6月17日、総務省は「国際競争力強化プログラム2009」を公表した。日本のICT産業は国内では高い市場シェアを占めているものの、海外市場ではシェアを確保することができていない。欧米諸国はもとより新興工業国との競争の激化、デジタル機器のコモディティー化の急速な進展などにより、厳しい状況にある。

 ICT産業の国際競争力の強化を考えるとき、主役はあくまで民間企業だ。グローバル市場を視野に入れた経営戦略を確立した上で、事業領域の「選択と集中」や国内外の企業との連携などを積極的に進めることが求められる。

 同時に、政府としても、こうした民間企業の動きを後押しすることが必要だ。先般、鳩山総務大臣(当時)が訪中し、李毅中 工業・情報化部長と会談、日中間の協力強化の合意文書に調印した。これを契機として、すでに中国の3Gに日本のモバイルコンテンツを提供するプロジェクトやポスト3Gの研究開発の推進など、様々な連携プロジェクトが動き始めた。

 このように、政府間対話の強化を図り、これを基に官民連携で具体的なプロジェクト組成を進めることが必要だ。総務省では2009年度から「ユビキタス・アライアンス・プロジェクト」を展開しており、中国はもとより、ベトナム、インドネシア、タイ、ブラジルなどの国々で日本の優れたICT技術の実証実験を展開し、日本の技術の「見える化」を通じ、相手国での採用を働きかけている。

 また、日本とインド、中東、アフリカを結ぶ超高速通信網を整備し、各国の大学や研究機関による共同研究、人材育成などを推進する「デジタルネットシルクロード構想(仮称)」を推進していく計画もある。さらに、日本が世界の成長センターとも言えるアジアの中にある強みを生かし、アジアと共に発展する道筋をつけるため、アジアにおけるブロードバンド基盤整備やICT利活用の促進、コンテンツ流通の加速化などを推進する基本構想として、「アジア知識・情報経済構想(仮称)」の策定を急ぐこととしている。

 政府全体としても、日本のICT産業全体の国際競争力強化のためのビジョン「デジタルグローバルビジョン」を2009年度末までに策定するとしており、今後、IT戦略本部の下に新たな専門調査会を設け、議論を具体化する。


ICT投資は「未来への投資」

 総務省では、今回のICTビジョン懇談会を受け、3カ年の行動計画「スマート・ユビキタスネット社会実現プログラム」を速やかに策定し、公表する予定だ。そして、プログラムの検証・見直しを定期的に行うため、有識者などで構成する推進会議を開催し、プログラムの進捗管理を進めていく。7月6日、政府はIT戦略本部を開催し、ICTビジョン懇談会の提言を数多く盛り込んだ新戦略「i-Japan戦略2015」を決定した。

 冒頭で紹介したWEFのレポートをもう一度見てみよう。そこでは「ICTは、国の経済回復を促すばかりでなく、中長期的な国の競争力を維持するためにも、決定的な役割を果たす」と指摘している。ICT分野への投資を、直面する経済危機への処方せんだけでなく、将来の成長力を左右する「未来への投資」と位置づけ、強力に推進していくことが必要だろう。

 次回は、大詰めを迎えた通信・放送の総合的な法体系のあり方、いわゆる融合法制の議論を中心に考察を進める。


<筆者紹介>谷脇 康彦(たにわき やすひこ)
(総務省情報通信国際戦略局情報通信政策課長)
1984年郵政省(現総務省)に入る。OECD事務局ICCP(情報・コンピュータ・通信政策)課勤務等の後、郵政省電気通信事業部事業政策課補佐、郵政大臣秘書官、電気通信事業部調査官、在米日本大使館参事官、総合通信基盤局料金サービス課長、総合通信基盤局事業政策課長等を歴任。2008年7月より現職。主として通信放送分野の競争政策に携わってきている。
著書に「世界一不思議な日本のケータイ」(インプレスR&D、08年5月刊)、「インターネットは誰のものか――崩れ始めたネット世界の秩序」(日経BP社、07年7月刊)、「融合するネットワーク――インターネット大国アメリカは蘇るか」(かんき出版、05年9月刊)。

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