【ネット時評 : 関根千佳(ユーディット)】
「スローなユビキタスライフ」が目指すもの――人生を支えるユビキタスへ

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 ユビキタス・コンピューティングという概念を提唱したのは、ゼロックス・パロアルト研究所のマーク・ワイザー研究員である。だが、彼が若くして世を去る前に、IT機器やセンサーが社会に氾濫する方向へ進んでいくユビキタスに対し、自分の意図と違うのだと警鐘を鳴らしたことはあまり知られていない。

 彼は、人間がハイテクIT機器に囲まれて生きる未来社会を予想したのではなかった。人間の思いやニーズを、見えないほどに周囲に溶け込んだ技術が、必要な時だけそっと支える"Calm Technology" という概念を、ユビキタスの替わりに提唱しようとしたのだ。だが、残された時間はあまりに短かった。

やおよろずプロジェクトで見えてきたもの

 文部科学省の文理融合を目指す「やおよろずプロジェクト」の中で、文系の私は、シーズ志向ではなく、人間の思いを中心に据えたニーズ志向の科学技術開発が可能なのかどうか、問いかけを続けた。人はどのように生きて行きたいのだろう?どんなときに幸福だと思えるのだろう?ITは、ユビキタスは、その願いに応えられるのだろうか?
 この3年間、さまざまな自治体をめぐって、市民と行政が望む地域情報化のあり方もうかがった。GPS(全地球測位システム)カメラ付き携帯を持って街を歩き、観光客と地元住民が街の良さを再発見してWebGISに展開する実験も行った。たくさんの美しい日本を見た。その中で、私の脳裏に湧いてきた思いがある。人々は、この美しい風土を愛し、コミュニティーの中でそれぞれの人生を生きているのだ。歴史や文化を含めた、長い時間軸に沿って。

ロングシナリオ手法への挑戦

 ヒューマンインタフェース研究者の間では、シナリオライティングというのは、よく知られた手法である。ある技術に対し、ユーザーがどのような状況や意図でそれを使うか、どのように反応するかをストーリーで示すものだ。だがこれまで、その手法はどちらかといえば、技術をユーザーなどにわかりやすく紹介するために使われることが多かった。いわば、生活を、一瞬切り取ったものに過ぎなかったのである。
 人間の時間軸はもっと長い。自分自身の加齢などの経年変化、家族構成の変化、たくさんの悲しみや喜びなどの経験の上に、人生は成り立っている。一瞬の積み重ねが、川の流れのように連続していくものである。このゆっくりとした流れそのものを、シナリオにして著わすことはできないだろうか?そうした思いで、今年8月に「スローなユビキタスライフ」という物語を著した。いわば、ロングシナリオ手法とでも呼ぶべきものである。

人生を支えるユビキタスへ

 「スローなユビキタスライフ」では、201X年の美しい日本の温泉地を舞台に、Iターンを望む老夫婦、引きこもりの少年、リストラに悩むビジネスマン、伝え得ぬ恋に悩む若い女性など、多様な人々が登場する。地域の生活を支えるのは、各人に合わせた携帯端末だが、それを支える膨大なアプリケーションが、その町には存在している。技術者たちは、その場限りの解決ではなく、人生の深いところから、時間をかけて問題を解決しようと試みるのだ。
 読み進むうちに、ITはどんどんinvisible(見えない)になっていく。それぞれの人生の方が、ずっと重要に思えてくる。そして、それを支えるためにかげからそっと技術が顔を出す。こんな未来だったら、こんな地域社会だったら、こんなユビキタス情報社会だったら、暮らしてみてもいいかもしれないと思えてくる。初めてなのに、どこかなつかしい未来を見たような気になる。人間が主役だからだ。
 マーク・ワイザー氏の目指した"Calm Technology"に、少しでも近づけたどうかはわからない。ただ、問いかけを続けて行きたいと思う。それこそ、ゆっくりと、スローなユビキタスライフの中で、できれば美しい日本の温泉地で、ほんとうの水と風を楽しみながら。

<筆者紹介>関根 千佳(せきね ちか)
ユーディット(情報のユニバーサルデザイン研究所)社長
九州大学法学部法律学科卒。日本IBM SNS(スペシャルニーズシステム)センター課長として、高齢者・障害者のIT利用について製品の企画/販売支援を行う。98年株式会社ユーディット (情報のユニバーサルデザイン研究所)を設立。 WebサイトやIT機器を、多様な人々に使いやすくするためのコンサルティングを行う。経済産業省や総務省を始め、多くの自治体でユニバーサルデザインに関する委員会に参加。 UDNJ(ユニバーサルデザインネットワークジャパン)理事長。美作大学講師、金沢大学非常勤講師。主な著書『「誰でも社会」へ』岩波書店2002年。

ホームページ:http://www.udit.jp/

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